第58話:計算違い
石車は植え込みからアスファルトへ降り、膝高の煉瓦に腰かける。ひとつの動作ごと、よっこらしょと声を必要として、ふらふら危なっかしい。
脚の怪我は、どうやらかなり酷いようだ。たまらず青二が駆け寄って手を貸した。
「環のスマホを借りたのは僕だよ。形無君の用事なんて、環くらいだ。環も同じ、彼女が急に予定を変えるのは、必ず君だった。だから連絡を取れなくすれば、彼女はまっすぐ家に戻るからね」
腹立たしくも。いや到底それでは収まらぬほど、この男の思惑通りになった。それを今「ああ」と平坦に声を返しただけでも、世界平和に貢献したと言えるのではないか。
「駅から自転車に乗って、環はこの公園の前を通る。それを引き込むつもりだった。僕がここを選んだのは偶然だよ。何しろいくら待っていても、来なかったんだ」
宝田家は公園から滑走路を挟んだ向こうにある。駅までを自転車で移動していたのもたしかに。環の移動経路で暗がりに引き込むなら、うってつけではあった。
「来たのは形無君からの催促だけだったよ」
言われて思い出すのは、形無の送ったメッセージに唯一付いた既読のマーク。あれは犯人の仕業と思い込んでいたが、言われてみれば違う。スマホを持っていたのは石車だ。
「それで朝まで居たってのか。なら何を見た。環が――犯行現場はここじゃないだろ」
「えへへ。そんなの決まってる。環の身体をゴミみたいに投げ捨てた、犯人をだよ」
びり、と。身体じゅうを電気が走った。そんな気がした、のではきっとない。脳から送り出された怒りの司令を、四肢が明敏に感じ取った。
青二も絵に描いたように、目を真ん丸にする。
「見た? 犯人を?」
――落ち着け。冷静にだ。
それならどうして黙っていたのか。七年も事実を闇の中へ押し込めた罪は重い。しかしここで石車をどうこうしたとして、犯人には痛くも痒くもない。
「正確に言うと、犯人が車で逃げていくところだね」
「じゃあ顔なんかは見てないんじゃないか」
「そうなるね、えへへ」
一瞬前とは別の怒りで、殴りたくなった。だがまだだ。話がこれで終わりなら、船場はここへ来させない。
「石車、もう一度聞くぞ。俺には時間がないんだろう? それなら急いで教えてくれ。お前は何を知ってるんだ」
「車を見たんだよ。僕は自販機でジュースを買って、その辺を歩いてた」
環は朝帰りをするのか。だとしても形無と一緒ではない。そう考えた石車は夜明けまで待ち、それでも来なければ計画を改めることにしたと言った。
「そしたら変に急ぐ車が止まって、ドアを開け閉めする音がした。またすぐ走り出して、この入り口の前を逃げていったんだ」
「そのとき横顔くらい見えただろ。車の色とか、ナンバーとか!」
思わず一歩、足が出る。襟を掴んで、締め上げたかった。そのまま絞め殺すのもいい。
怪我をした男に遠慮する、非力で度胸のない自分にはとても無理だが。
「えへへ、無茶を言わないでほしいなあ。僕は環を殺そうとしてたんだよ? その計画が誰かと被って、目の前の車がそうだなんて。形無君なら、想像がつくの?」
「そりゃあ……」
正論だ。今の自分は、現在の状況を踏まえての結論を急ぎすぎている。情報は生もので、その時々に左右されると骨身に染みているはずなのに。
「でね、それでも何だろうなとは思ったんだ。だからちょうどここへ来て、見回した。トラックが停まっていたよ、二台ね」
目の前の光景とそっくり同じだった。ただしトラックの会社と台数は違っていた。
石車はそこの部分を、繰り返してもう一度言った。
「トラックがどうかするのか。どうせみんな寝てる」
「まあまあ。僕はやることも他になくて、散歩がてらぐるっと見て回ったんだよ。そうしたら、環と出会った」
綾の杜公園の西側入り口近く。宝田から聞いているのと、きっちり符合する。報道では綾の杜公園付近としか発表されていない。
「彼女はそこに寝かされていたよ。一台目と二台目の間だよ」
操られるようで腹立たしいが、石車が指を向けたほうへ自然と眼が動く。語られている情報が真実か否か、見極めるのに必要だから。
そこは西側入り口よりも、薄納基地のゲートに近い。先頭のトラックにかなり接近して、二台目が停まっている。もしも列を抜けようとしたら、ハンドルをいっぱいに切ってぎりぎりの位置だ。
「ああ、分かった。そういうことか――!」
当時のこと。この通りが、目に浮かぶようだった。犯人は環を絞め殺すだけで飽き足らず、さらに酷い仕打ちを与えたのだ。強く噛みしめた奥歯が、ギョリと厭な音を立てる。
だが犯人の計画通りにならず、そのまま朝を迎えてしまった。
「何、どういうこと?」
石車は脚が痛むのか、ときに擦った。それだけでもバランスを崩しそうになるのを、青二が支えてやっている。
それでも少年は神妙な面持ちで話を聞いていた。そのころまだ小学生だった彼には、ニュースとして全く知らぬもののはずだが。
「環の遺体が見つかったのは、午前八時近くなってからだ。犯人には予定外だったんだよ、もっと早く見つかるはずだった」
「もっと早く?」
二度三度と繰り返し、青二の視線がトラックと形無とを往復する。だが結局、分からない様子で首を傾げる。
「くっついて停まってるトラックとトラックの間に、人間が寝てるんだ。その後どうなる?」
「別にどうも――あ」
これは、なぞなぞではない。停まるトラックもいつかは動き出す。そんな当たり前の事実に気付けば、結果は明白だ。
「トラックで轢き殺させようとした?」
「いや違う。想像だが、首を絞めた跡を潰させようとしたんだろうさ。でもそのトラックは、ハンドルをいっぱいに切って走り出した。だから轢かれなかった」
何か事情があって、先頭より先に二台目が発進したのだろう。トラックの舵角は普通車よりも大きく切れる。犯人の意図したコースを、タイヤは通らなかった。
その後先頭のトラックは、もちろん後ろの遺体に気付かぬまま移動する。そうして丸見えの路上に放置された遺体が、普段から人通りが少なかった為に発見が遅れた。
「でもそんなの、誰も気付かなかったの? 搬入口なんだから、出入りする業者とかに警察は聞くんじゃないの」
「聞いたさ。宝田さんも、目撃証言は取れなかったって言ってた」
それがおかしい。石車の怪我は、走行中のトラックに乗ったからと言わなかったか。
証言の取れないはずのトラックに、この男はいったい何の用があったのか。
「お前ヒッチハイクのトラックで、どこへ行ってた」
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