第57話:明けの亡霊

 午前四時十五分。日の出を間近に控えた綾の杜公園は、ひっそりと静まり返った。林の向こうの滑走路からも、人や機械の気配は伝わってこない。地面に敷き詰められた煉瓦の色も、概ね分かるようになった。

 分からないのは、ここへ来た理由だ。


「行けば分かるって、俺には普段と違うように思えないんだが」

「だね。基地祭のときでもないと、代わり映えしないよ」


 青二と二人、正面入り口から闇雲に歩いた。メモには綾の杜公園としか書かれていない。東京ドーム三つ分もある敷地の、どこへ行けと言うのか。

 これと特徴のある場所は、中央の売店くらいだ。しかしそこにも、目に留めるものはなかった。北側にある池も同じく。


「時間って何の時間なんだよ。急かすなら、きちんと説明しろよな」

「うーん」


 青二は気のない返事で、悪態に付き合ってくれなかった。それはきっと、形無が苛々するのと同じ理由だろう。

 常に冷静な船場に、若干の焦りが見えた。それも自身でなく、形無の為に。時間がないとは命令を聞かす方便でなく、本当に何かあるのだと分かってしまう。


 ――だからその何かを言えってんだよ。

 大海にいきなり放り出されて、見えもしない陸に急げと言われても途方に暮れる。


「池でもないなら、あそこかな」

「まあ――船場も知ってるはずだけど」


 何度も足を向けたい場所ではない。七年ぶりならまだしも、石車の件から昨日の今日だ。けれど他に候補もなく、公園の西側入り口へ。


「何もなさそうだね」


 公園から一歩出て、左右に伸びる通りを眺める。昨日見たのと、やはり何も変わらない。


 ――いや。何だ、このトラック?

 公園と学校の間。広くもない道路に、コンテナを積んだ四トン車が三台も停まっている。

 運転手はエンジンを止めて、居眠りをしているようだ。


「ああ、基地の搬入待ちか」

「こんな時間から待ってんだね」

「運送業で遅刻は厳禁だからな」


 昼間は開け放たれているゲートも、今は堅く閉ざされた。自衛隊も公務員なのだから、受け付けの開始は八時半だろうか。

 だとしたら、いくら何でも早すぎるように思うが。


「僕はね、見たんだよ」


 形無自身と、青二の声。それと小鳥以外に、誰かが居ると思わなかった。聞こえたのは、植え込みの中。種々の木が葉を茂らす暗がりから、のそりと人影が動く。


「お前……」

「えへへ」


 空も地面も建物も、紫色に染まり始めた。逢魔が刻とはまた異なる、現実から踏み外した世界。

 そこに見た幻だろうか。


「石車だよな。別人じゃないな?」

「えへへ。僕は僕だよ」

「えっ、へ太郎なの?」


 青二が驚いたのも無理はない。石車は髭を剃り、髪もざんばらにだが短く切ってある。服装も生意気にパーカーなど着込み、海へ遊びに行くような七分丈のパンツ。やけに長い靴下が、その下に目立つ。

 顔の造作も変わっていない。環の死後、やつれたときのままだ。重ねた年月のせいで、少し自信がなかったが。


「そうだよ。どうしたんだい、僕が死んだとでも思ったのかい」

「思ったよ。血の付いたコートが落ちてて、少なくとも大怪我をしたと思ったよ」


 ――髭の下で、こんな薄ら笑いを浮かべてやがったか。

 そう思うと、返事をしたくない。青二が答えたのさえ、心配をしたと思われるのが癪で止めたいと思う。


「怪我はしたよ、ほら」


 自慢をする風で、石車は靴下を捲る。するとそこに、上から下まできっちり巻かれた包帯が姿を見せた。左右の脚に両方とも。


「えぇ? そんな怪我、どうやったらそうなんのさ」

「走ってるトラックに、えへへ。こっそり乗ろうとしたらだよ」

「――何でそんなことすんのさ」


 相も変わらず、奇天烈な男だ。その事実は間違いないものの、もう一つ感じるところがある。


 ――気に入らんな。

 この公園に来れば分かる。船場が言ったのは、おそらく石車のことだ。


「石車。何だかさっぱり分からないんだが、俺には時間がないらしい。それがどういうことか、お前には分かるのか」


 関係がないのなら、この男に関わっている暇はない。聞きたいことは山ほどあるが、どうせまたアワワ商店街の入り口に居着くのだ。


「えへへ。僕こそ形無くんが何を言ってるのか分からないよ。でも教えてあげたいことはある」

「何だ。手短に言え」

「だから僕は見たんだよ。あの日、ね」


 あの日。他ならぬ石車からそう聞いて、生きてきた中のどの日を思い浮かべようか。もちろんそれは、たった一日しかない。


「お前やっぱり何か知ってるんだな。どうして黙ってた! 今までどうして!」

「えへへ。あの日僕はね、決めてたんだ。環と君を殺そうって」


 殺すつもりだった。はっきり言われたのは、初めてに違いない。だがそういう心積もりを持った、そういう奴だと知っていたはずだ。

 だのに、背中が寒くなる。


「知ってるさ。前に聞いたからな」

「えへへ、そうだったかな。まあどっちでもいいけど」

「いいからさっさと話せ。その話とお前の怪我と、どう関係あるのか。どうして俺が、その与太話を聞かなきゃならないかもだ」

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