第56話:大切な物
二歩の間合いを踏み込んだのは、無意識だ。
「何するはお前だぁっ!」
右手を拳に握り、思いきり振りかぶったのも。ましてやそれがどこへ行くのかも、理性の管制下にない。
バキッ。と、骨の折れるような音がする。青二を殴り飛ばした大男の顔面で。
――やり過ぎたか!?
その瞬間に、自分が他人を殴ったのだと把握した。そんな行為は人生で二度目。石車を殴って以来、六年ぶりだ。
当たったのはどこか。見るとちょうど、頬骨の辺り。ならば折れても、命に別状あるまい。多少の安堵を感じつつ、腕をゆっくり引き戻そうとした。
「お前も船場さんに逆らうってことだな?」
マグマを沸かしたような低音で、恨みの声が漏れた。大男の手は、こちらの手首を掴んでいる。引こうとした腕も、後退ろうとした身体全体も、動かない。
「どうするのがいい? 境山湖で泳いでみるか。それとも用件を済ませた後、東京湾か」
「や、やるならやれよ」
ある程度の覚悟をしていたはずだが、言葉にされると震えがきた。力の入らない膝を踏ん張って、せめてもドスの利いた声を。張り合って低い声を出そうとしたのに、変に裏返ってしまう。
「ああん?」
憎々しい声。大男の怒りはもっともだが、骨の折れた割りに痛がる素振りがない。どころか掴んだ手首を頭上に掲げ、そのまま形無を宙吊りにした。
「くっ」
「こんなひょろひょろの腕で、どうにかなると思ったのか? ケンカの前に、ちょっと運動をしたほうがいいな。あちこち関節が鳴ってやがる」
折れたと思ったのは、こちらの肘か指かの関節が鳴っただけのようだ。せせら笑いに恥じ入るところかもしれないが、手首と肩が痛んでそれどころでなかった。
「身の程を知れってやつだ」
吊られたまま、頬が張られた。手首を利かせただけの軽いものだったのに、首がもげるかと思った。
一瞬で熱を持ち、腫れていくのが分かる。
「知ってるさ。青二が教えてくれた」
「はあ?」
「生きるのに必要な何もかもを知ってるなんて、不可能だ。でも俺は、知っていようとした。そんな必要はないんだって、そこのクソ生意気な高校生が教えてくれたんだよ」
自分に何が出来るのか、出来ないのか。知っておく。出来ないこと、経験のないことに、怯えない。興味のあること、知りたいこと、やりたいことを隠さない。
心を開きさえすれば、青二の眼差しはいつも真っ直ぐだった。
「あいつは凄えんだよ。何が凄えって、自分の一番大切な物が何か、ちゃんと分かってる!」
それが突如預かることとなった男の子に、心から思うことだ。
もちろんこの大男に関係などなく、話の脈絡もない。だが言う機会は今しかない。面と向かって告げるのも照れくさいが、本人に伝えておきたかった。
形無が死んでしまえば、同じことを言う者はもう居ないかもしれないから。
「わけの分からんことを!」
大男の腕が、ぎりぎりと後ろに引き絞られる。弓矢と言うより、捕鯨の銛。ただの棍棒と言うより、鐘つきの撞木。へなちょこでない、正真正銘の鉄拳が唸りを上げる。
「ワレ、何を勝手さらしとんじゃボケェ!」
雷轟が響き、顔が潰れたと思った。形もないほどに砕かれれば、逆に痛みはないのかと。
けれども違った。大男の手が離れ、吊られていた手首が自由を取り戻す。おかげで床に落ち、尻餅をついた。
目から出る火花を掻い潜り、視線を通す。なぜか大男が、居室の入り口でひっくり返っている。
「形無、痛むかいの」
問うたのは、振り抜いた蹴り脚を畳む船場。何より先に乱れた裾を整え、それからこちらに手を差し伸べた。
「え、いや。はあ、平気です」
うっかり握り返すと、作業機械に繋がったような力強さで引かれた。一切の力を必要とせず立ち上がる。
「あの、これは……?」
「今日は手が足らんけえのう。まだ修行の足らんのを連れて来たんじゃが、至らん部下がすまんことをした」
「いえ全然」
どういう事態だか、まるで呑み込めない。船場は形無を害しようと訪れたのでないのか。いやそれとも、ここではまだ早いというだけか。
「何その言葉。やっぱりヤクザじゃん」
「あん? ワシの言葉が――」
「船場さん、地が出ております」
「おっと」
耳慣れない口調に青二が突っ込み、スポーツマンの黒服が囁いた。船場は緩んでいないネクタイを締め直す。
「私はヤクザではない。むしろ潰してきた側だ」
「へっ?」
「こういう言い方は卑しくて好かんが。実のところ暴力より、金の力のほうがよほど強い。そういう話だ」
説明には色々足りないが、要は出身地で暴力団を壊滅させるほどの力を得て、はかな市へやって来たらしい。
「と、そんなことより。形無、早く行け。時間がなくなる」
「時間って何のです?」
「メモを渡しただろうに」
受け取った。手にはなく、探すと足元に落ちていた。それは因縁深い綾の杜公園へ行くように、ボールペンで書かれている。
「俺はてっきり――」
「てっきり? 何か知らんが早く行け。時間がないと言っているだろうが!」
「はっ、はい!」
怒声に跳ね上がり、玄関に駆ける。船場に促されて、青二も後へ続いた。
いったい何が起きているのか。さっぱり一欠片も分からないが、分かったことも別にある。
――どうも俺は、死なないらしいや。
「形無さん、これ」
「ん?」
狭い階段を降りつつ、青二の手が後ろから伸びる。そこには見覚えのある鍵があった。愛車の白い軽トラの鍵だ。
「角刈りの人に渡された」
「何があるってんだ?」
「分かんないよ。でもまあ、ありがと」
少年の返答はよく聞き取れなかった。「え、何だって?」と聞き返したが、もう声はない。しかしおそらく、知るわけがないと悪態を吐いたのだ。彼はそうでなくては。
ビルを出た空が、薄っすらと夜が明けかけている。何が待ち受けているか知れぬまま、停められていた軽トラに乗り込んだ。
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