第十節 執念と執念

第54話:出迎え

 安っぽい鉄扉。何重にも色が塗り重ねられ、結露のせいか温度の具合いか、またそれが剥げている。マーブル模様がオリエンタルな雰囲気だと思う。もちろんそれが、根拠のない偏見とも知っているが。


「青二、いラっしゃイ!」


 錆びの音をさせて、扉は開かれた。友人宅のはずだが、出迎えてくれたのは、くたびれたトレーナー姿のルーエンだ。顔を見るなり、少年がふくよかな胸に抱きしめられる。


「形無さんモ来たのネ」


 四階まで上るのに、一度休憩をした。一気に行けなくもなかったが、息を切らしての訪問は格好悪いと思った。

 そのとき、友野に言われたことを思い出した。「形無は酷いって怒ってたぞ」と、数少ない友人は言った。その怒っていた人物とは、ルーエンのことだ。


「ん、いや。ええと、お邪魔します」

「いいヨ。入っテ」


 青二への温かな歓迎ムードと、明らかな温度差がある。熱くも冷たくもない、風呂で言うなら二十七度くらいか。


「こんな時間に、友達のところなのに、悪いな。他に行き場がなくてさ、本当に困ってたんだ。だから助かるよ、ありがとう」


 青二が電話をした時点で、変な奴に絡まれて追われていると説明していた。そのせいかルーエンは、こちらが靴を脱ぐのも待たずに奥へ引っ込む。

 半畳の半分しかない下足スペースは、形無と青二の靴でいっぱいになった。


「えっ、と。その友達は? その人にも何か言っといたほうがいいよな?」


 階段と同じく狭い廊下に、おそらくバスルームの扉があった。通り過ぎてミニキッチンがあり、そのまま居室となる。六畳もあるか、フローリングと言うには軋みの酷い床だ。板間と呼ぶべきだろう。


「タオ、いま買い物ニ行ってル」


 片付けるほどの物がない部屋。形無ならば数百円で叩き売るちゃぶ台と、同じく二千円のベッド。床に毛布が重ねられているのは、即席の寝床に違いない。ルーエンの抜け出た跡が、何となく残っている。

 その部屋の主の名は、タオというらしい。急な来訪者に、飲み物でも買いに行ったのだろうか。それならなおさら申しわけない。


「ああ、そうなんだ。気を遣わせたのかな。電車が動き出すまでだから、ほんの何時間か居させてもらえるだけでありがたい」

「電車?」


 ルーエンはちゃぶ台を前に座り、置かれた缶を口に持っていく。どこで売っているのか、やたらにサイケデリックな色合いだ。酒なのかジュースなのか、中身の想像がつかない。


「始発が五時過ぎだから――あ、いや。それじゃ目立つな。八時くらいまで居てもいいか?」


 船場と部下たちの動きによって、電車を使うかバスにするか。それともレンタカーでも借りるか、案は分かれる。

 しかしどうであれ、通勤や行楽に動く人の波に紛れたほうが動きやすい。


「サア? ルーエンの家ナイかラ。聞いてモ分からナイヨ」

「あ、ああ。そりゃそうだ。タオ? が帰ってきたら、挨拶させてもらうよ」

「心配イらない思うケドネ」

「そうか、助かる」


 適当に座れと言われて、立ったままであるのに気付いた。

 さほど面識のない男に見下ろされるのは不愉快だろう。勧めに従おうと思うが、どこに落ち着くべきか。よくよく考えれば、女性の部屋に入ったのは初めてだ。

 青二はルーエンに手を引かれ、すぐ隣に座らされた。今回はそれを羨ましいと思わない。結局ちゃぶ台を挟んだ向かいに腰を下ろした。これが無難だろうと信じて。


「青二、怪我ナイ?」

「してないよ。全然元気だし」

「ソレ良かっタ。何か飲ム?」


 遠慮なく頷いた青二に、ルーエンは微笑む。ミニキッチンに向かい、ミニ冷蔵庫から缶を二本取り出した。形無にも分け前があることと、見覚えのある青いコーラのパッケージに安心する。


「タオはどこまで行ってくれたんだ?」

「すぐソコ」

「それにしちゃ遅いな。大丈夫かな」


 到着したときの時刻は見なかった。十分ほどが経って、間もなく午前三時四十分になる。普段なら爆睡の時間だが、全く眠くない。

 安全神話などとうに過去の物だが、ベトナムに比べれば日本の夜は治安がいい。だが女性の一人歩きを、ぜひにと推奨すべきものでもない。

 ――まあ今日は、もっと危ないのがうろうろしてるけどな。


 怒っていたという件を、こちらから切り出すべきか迷う。

 普段の何でもないときならば、直ちに謝っている。またこう言っては失礼千万だが、いま船場のこと以外を考える余裕がなかった。埋め合わせを求められても、すぐには動けない。


 ――でもなあ、何が問題かくらいは聞いとくべきだよな。


「なあルーエン。俺に何か、言いたいことがあるんだよな? 怒ってたって、友野に聞いた」

「ウン。でモ、もうイイノ」


 ――やべえ、マジのやつだ。

 呼びかけにこちらを向いた視線が、もういいと言い終わる前に下を向いた。これが自分の彼女なら、別れ話しか想像出来ないくらいに重い。


「ええと、あのな。今すぐはどうも出来ないけど――」

「ソレはもう済んだかラ、イイヨ」


 今度は言葉が被せられ、ゆっくりと首も横に振られた。

 いよいよまずい。それほどの何かをした覚えなど全くないが、言われるまま「じゃあいいや」とはとても思えない。


「ル、ルーエン。何があったかくらい教えてよ。自分の何が悪いかも分からないって、つらいからさ」


 青二には言っていないのに、どうにか収めようとしてくれる。高校生に執り成される二十八歳の有り様は、何とも情けない。が、涙を呑むしかなかった。


 ピンポンッ。

 ふざけて早回しにしたような呼び鈴が鳴った。タオが帰ってきたようだ。


「形無。ドア、開けてアゲテ」

「あ、ああ」


 玄関に近いのは青二とルーエンだが、当然に逆らえない。そんなことで罪滅ぼしにもなりはしないが、逆にそのくらいは何でもやるのが筋というものだ。

 経験の少ない女性とのもめごとに、卑屈になっているとは自覚がなかった。

 言われるままドアのノブに手をかけ、気付く。ルーエンは先に部屋へ引っ込んでしまった。ゆえに錠はかかっていない。

 それでも束の間の居候先の、主を迎えるのだ。躊躇なく、軋む音に気を遣いつつ、扉を開いた。


「やあ」


 どこか近くの常夜灯が、寿命間近で明滅を繰り返している。ストロボ演出にも似た光景の通路に立っていたのは、すらと背の高いスーツ姿の男。


「……どうも」


 見えない腕が伸びて、首を絞められたか。そう感じるほど息が詰まり、呼吸を整えようとしてもうまくいかなかった。

 逃げ出そうにも、船場の後ろへ幾人かの人影がある。しかも中の一人は、この男の部下でない。


 ――そういうことか。

 こちらの視線の正面を避けるように。それでも睨みつけようとする、アジア系の女性。いつか、しゃぶしゃぶ屋で出会った、あの女性店員だった。

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