第51話:呪いのアイテム
「はあ、はあ……」
――やべえ、死ぬかと思った。
見つかった場所から、それほどの距離でなかったろう。走ったのはおそらく、二百メートルほどだ。
どこの奇祭かと思うくらい心臓が高鳴り、息を吸うたび喉が震える。古道具を運ぶのはそれなりに力が要って、最低限の体力づくりにはなっていると思ったのに。
「運動しよ」
愚にもつかぬ誓いを立てられる程度には、余裕があった。体力でなく、状況にだ。
建物と建物の間。地図にも示されない、狭小な裏路地。ときには排水路を通す為の空間を抜け、めでたく形無は現在地を見失った。
おかげで壁にもたれ、息を整える暇はある。
「トムクルーズってなに?」
追っ手を振り切るという大役を果たした少年は、ため息めいた深呼吸を一度行っただけだ。
「アメリカの偉人だ。この辺に詳しいんだな」
街に詳しいのにも色々あって、青二のそれは幼い子どもの遊び場という感じがする。
駄菓子屋に行く程度はしたと以前に聞いたが、雑居ビルの裏を秘密基地にする活発さは意外だった。
「いや俳優なのは知ってるし。家ん中を探せば、百円玉くらいは転がってたから。それで買い物をしたら、隠れて食べるんだよ」
「へえ。そいつは楽しそうだ」
「持って帰ったら、盗んだのかって言われるからね」
家具の隙間の数百円が問題なのでなく。万引きをしたのか、誰かの金を盗ったのか。子がそんなことをすれば、人に笑われるでないか。そう母親は怒るらしい。
家の中で見付けたと言うのは聞こえないようで、父親が帰ってきた途端に殴られたと。事実、小銭が失くなったのを騒いだことはないそうだ。
「今度暇なときレンタルビデオ屋に行くとして、ここはどこだ?」
「百円自販機のとこ。写真館は離れちゃったよ」
――どうでもいいもんを、よく覚えてんな。
メーカーの名さえも知っているか危うい、ユニークな飲み物ばかりを入れた自動販売機。誰にでも通じる目印でなかろうが、形無には分かった。
「それなら……」
乾ききっていない雨水と、生ゴミの臭い。一周回って癖になりそうな空気の中、脳内地図に現在地を記す。
「あ」
「どこかいいとこある?」
「いいとこって言うかなあ」
商店街に居ると知られたからには、このまま別の場所へ移動したほうが良いのかもしれない。もちろんそれには、発見されるリスクが伴う。
どちらが良いか迷う間も、革靴の音が動き回った。
「まあ、行ってみよう」
移動するにしても、一旦は完全に身を隠す必要があると判断した。それにはやはり、誰かの所有する建物に入ってしまうに限る。
候補になる知人の自宅が、ちょうど二軒先と思い出した。
「ここ?」
隣家と反対の造りになった、古い建て売り住宅。二階建ての壁はモルタルが雨染みに汚れている。
斜め前の路地に身を縮め、ガラホを取り出した。
「しゃぶしゃぶの店長の家」
「ああ、あの人」
前回の経緯があって、何となく足が遠退いている。
悪いのはあの女性店員で、背後に居た船場と繋がりのある形無だ。店長には関係のないことだのに。
「一生に一回くらい、こんなこともあるだろ」
理解しているし、贅沢を言っている場合でない。訪問するのに非常識な時間なのは、勘弁してもらおう。
などと屁理屈を紡ぎ上げ、発信のボタンを押す。インターホンを鳴らせば家人を起こしてしまうし、少なからず屋外に聞こえてしまうのを嫌った。
「電気が点いたよ」
寝室の位置までは知らなかったが、見上げた二階の一室に薄暗く照明が灯る。七回。八回。きっと気付いているはずのコール音が、回数を増していく。
――あれ。
十回目で切った。
温厚で、やるべきことは黙黙とこなしていく。そんな店長が電話に出てくれないのは、理由があるに違いない。
どんなものか想像すれば、舌打ちしたくなってしまうが。
「カーテンが動いてる」
「行こう。迷惑になる」
青二の言う通り、閉じられたカーテンの合わせ目付近が僅かに捲られる。見られぬよう告げて、ゆっくりと路地を退がった。
「ええと?」
今度は小さな商店の軒先に潜んだ。店が開けば商品の並ぶ棚が、いい目隠しになる。
頼るのでなかったか。青二の眼が聞くので、肩を竦め「へへっ」と卑屈な笑いを作って見せる。
「
「そうらしい」
この街の船場汚染は、ずっと前からだ。しかしますます、拡がる速度を増している。履歴の長い身で言うのもおこがましいが、そら恐ろしいものがあった。
「いっそダンボールハウスに入れてもらうか――」
半ば本気で、その案もあり得た。ただしホームレスたちの人柄を無視して言えば、清潔でないのも間違いない。
石車で慣れはしたようだが、青二も「うーん」と難色を示す。
「オレにも一つ、当てがなくはないんだけど」
「どこだ?」
「それにはスマホが要るんだよね」
「取り上げられたやつか、そいつはちょっと難しいな」
パソコンの画面で見た浅井夫妻の居場所は、はかな市を出ていた。奪い返すなら、何らかの移動手段が必要となる。
「いや中古とか、別のでいいんだけどね」
無理だよね、と青二は案を取り下げた。
スマホを持っていても。電話番号を交換しても。携帯電話が、守りたい者を守ってくれはしない。
ここぞというとき頼れば、むしろ良くないことを引き寄せる気さえした。
「何とかなるかもしれん」
「えっ、あるの?」
「かもだぞ、かも」
――所詮、小っちゃい機械なんだよな。
呪いのアイテムなどであるはずもなく、くだらない妄想で可能性を縮めるほうが災いと言える。
青二に免じてもう一度だけ、頼ってもいいように思った。
「どこにあんの?」
「駅裏だ」
アワワ商店街の北端。ホームレスたちの住処へ、足を向ける。
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