第50話:困難な任務
大きな道路を避け、車で通るには面倒な道ばかりを選んで進んだ。
ようやくアワワ商店街を目前まで走り抜いたものの、三十分ほどもかかってしまった。青二に言わせれば「走ってるのは格好だけで、これは早歩きっていうんだよ」だそうだが。
「思ったんだけどさ、オレんちに行くのはどう?」
――行く、か。
他意はないのかもしれない。発言した少年の現状を思うと、そうは取れないけれど。
「快適そうだが、俺なら一番に部下を行かせるな」
「そうかあ」
居場所を知られてしまえば、そこがどこだろうと同じだ。商店街とその周辺、数百軒のどこに居るか分からない。という状況が、唯一追跡から逃れる方法だろう。
そうして夜が明け、電車やバスが動き始めればこちらのものだ。日本全国、どこへでも隠れられる。
どうにも後ろ暗い話だが、当面は仕方あるまい。
「で、どうすんの?」
「それなんだよ」
紛れ込む具体的な場所は、いまだ決まっていなかった。いや、候補はある。そこで大丈夫かと自信を持てないのが正直なところだ。
しかしもう、ここまで来てしまった。直ちに決めなければならない。
考え方として、大きく二つ。形無が情報屋と知っている者のところか、そうでない者か。
――知ってる奴は、俺も知らないうちに汚染されてるかもな。
船場の両手がどこまで伸びるのか、身近でありながら知りようがない。そう考えると、候補は後者に絞られた。
「よし、じゃあ――」
「ねえ形無さん」
「何だよ」
決定を告げようとしたのに、機先を制されてしまった。しかも呼びかけた青二は、問い返すこちらを見ない。
「あれってもしかして」
先を歩いていた青二が足を止めた。場所はいよいよ、商店街の中央の通りにかかる。彼は建物のコンクリート壁に身を隠し、通りの先に指を向けた。
こんなときにふざける少年ではない。形無も相応の慎重さで、その方向を覗き見る。
「ああ、ビンゴ」
油でも塗ったように磨き上げられた、黒い外車のセダン。街灯から離れた場所に停まっているが、人の形くらいは見分けられる。
車内には、当然に人影がなかった。シートを倒して、見えなくしているのだろう。鏡かカメラでも使えば、問題なく監視が出来る。
「やっぱり?」
「よく気付いたな、船場の若い衆だよ」
「どうすんの、向こうへ行くの?」
よく知る写真館が、もう一本先の通りにある。父が仕事で使う写真関連を、全て任せていたところだ。形無も他には見せられない写真のプリントを頼むことがあった。
「ガキのころから世話になってるとこだ。あっちから回ろう」
監視の車は一台しか見えず、商店街の中央付近に居る。ならばと入り口を迂回することにした。
少し急ぐと踵のないサンダルが、パタパタ音を立てる。いくらそっと歩こうとしても、スニーカーや作業靴のようにはいかない。
「履き替えなんかないよね」
「どうにかなるかもだけどな。とりあえず隠れる場所を見つけてからだ」
午前三時を過ぎ、静まり返る商店街。僅かな話し声さえ、響いて奴らに届きそうな気がした。
なるべく足音を殺し、商店街の入り口の交差点へ。点滅し続ける黄色の信号が、やけに眩い。
「その辺に居そうなのにね」
期待を含んだ青二の声は、船場の部下を指したものでなかろう。
同感だった。ただでさえ深夜の街に居るはずもないあの男が「えへへ」と、ひょっこり現れそうな気がしてならない。
「上に行こう」
否定も肯定も、言葉にすれば感情が漏れ出そうだった。聞こえなかったふりで、歩道橋へ上がることを提案する。
変わらず青二を先に歩かせた。船場の部下に、より面が割れているのはどちらか考慮してだ。この少年を知っているのは、船場の他に数人しか居ない。
「誰も居ないよ」
「悪いな」
交差点の上を閉じる格好の、トライアングルに組まれた歩道橋。監視には良い場所だが、幸運だった。
ここを自分の砦のように滞在し続けた男のことは、もう思い出すまいと記憶を閉ざす。
「どっち?」
「一本先の、真ん中辺り。写真館があるの、知らないか?」
「ああ、知ってるよ」
うっかりしていた。青二は商店街から徒歩数分の位置に住んでいた。目印を言えば、たいていの場所には行けるはずだ。もしかすると、形無よりも詳しいかもしれない。
どんどん進んでいく背中が、頼もしく見える。親に見放され、これからどう生きていくか何も見えぬ十八歳が。
――若いってのはいいねえ。
自身も若いつもりでいた。実際に二十八歳で、冗談でもなければ自分をおっさんなどと言いはしない。
しかし走れば体力の衰えは顕著で、事態の把握も遅い。判断は臆病になり、何一ついいところがないように思う。
環は今の彼よりも、一つ年齢を重ねただけだ。
「形無さん、何してんの」
無意識に足を止めていた。戻ってきた青二が手を引いてくれる。
――もう介護の域か……。
「いつも悪いねえ」
「何言ってんの?」
お父っつぁん、とは言ってもらえなかった。それはいい。良くないのは、耳に届き始めた硬質の足音。
カッカッカッと、革靴の底が鳴っている。振り返ると、歩道橋の向こうにスーツ姿の男が二人走っていた。
「やばい、走れ!」
どちらにと考える猶予はない。向かっていたまま、写真館の方向へ。
「どうすんの! このままじゃ隠れらんないよ!」
「分かんねえ! とりあえず撒かなきゃ話にならん!」
詳細な地図は頭に浮かぶ。だが単純な時間短縮の順路は見えても、追っ手を欺く方法など考慮したことがない。
まずは走って、距離を取ることだ。体力は持ってくれることを人ごとのように祈るしかない。
「やっべ!」
五歩先の青二が、急ブレーキをかけた。九十度を超える転回を行って、人ひとりが通れる路地へ逃げ込む。
理由は形無の眼にも明らかだ。後ろからとは別のスーツ姿が、前方に迫る。おそらくは、先の車に乗っていた奴らだろう。
「俺はトムクルーズじゃないっての!」
吐き捨てて、必死に青二の後を追う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます