第49話:上手を行く

 我が家が背に抱える林を、深いと思ったことはない。木々の間を透かして向こうの空が見えたし、幼いころはそこが遊び場だったから。

 軽トラは訪問者の向こうにある。残る移動手段は、自身の持つ二本の足しかなかった。


「すぐ抜けられると思ったんだがな。気を付け――うわっ!」


 積もり積もった落ち葉に滑った。目の前にイバラの棘があり、ぎゅっと眼を閉じる。

 しかし、がくんと衝撃があって止まった。腋から肩を抱える腕が、予想以上に力強い。


「気を付けるのは形無さんだね。ライト、失くさないでよ」


 当てつけられたが、青二もさほど余裕のある表情でなかった。

 灯りは持っていた小さなマグライトだけ。履物は勝手に置いていたサンダル。そんな装備で夜の山中を攻略するのは、無謀と言っていい。ハゼノキやらキイチゴやら、低木がジャングルともなっていた。


「ふう、どうにか生きて下りられたな」


 直線距離で百メートル足らず。圏央道を見下ろす陸橋へ辿り着くには、二十分以上もかかったろう。ガラホを見ると、午前二時三十分を過ぎたところだ。


「だからオレは全然平気だったってば」


 正当な意見は無視して悩んだ。下界へ出たはいいが、どこへ行くのか。


「形無さん、知り合いが多いんだからさ。誰か頼れる人居ないの」

「多いのはそうなんだけどな」


 これが普段ならば、助けてくれる者はいくらも思い付く。だが今は、船場に繋がる者を頼れない。

 まずタクシーは駄目だ。協会の情報は、船場に筒抜けと考えていい。潜伏先として、ホテルやネットカフェも同様だろう。


「飲み屋もなあ――」


 昔ながらのショバ代を要求するヤクザも、ままある。けれどもはかな市では、根絶されたと言っていい。シップスエージェントサービスのコンサルティングを受けた店は生き残り、そうでない店は消えたからだ。

 いくらかの例外はあっても、それは船場とことを構えようという武闘派の印。形無の立場で頼れる筋でない。


「じゃあアワワ商店街?」

「しかないんだが、安直だよな」


 住宅地に住む知人を頼ることも、もちろん出来る。ただそれは、見つかった場合の逃げ場に困る気がした。商店街ならば隠れ場所は無限にあるが、住宅地でどこに潜んでも不法侵入になってしまう。

 問題はそうするしかない現状を、船場が予測出来ぬはずがないという点だ。


「あ、友野さんは?」

「あいつを呼んだとして、来るのに二時間かかる」


 だから呼ぶ意味がない。とは事実だが、本心はまた違った。


 ――友野は巻き込んじゃ駄目なんだよ。


「じゃあとりあえず、歩こうよ。他に思い付いたら、すぐそうすればいい」

「だなぁ。迂闊に動いていいのかってのもあるけど、じっとしてれば見つからないってもんでもないよな」


 考えてばかりでは始まらない。そう言いたげに、青二は東に向かって歩いていく。だが欄干に縋って動かぬ形無を振り返り、また戻ってくる。


 ――ひと晩だけなら、山ん中でもいけるけどな。

 出てきたばかりの林を横目に、そうも思う。

 だが船場からの追っ手は、そんなことで諦めない。この先どうするのか考え、実行するまでの時間を過ごせる場所が必要だ。


「よし、行くか」


 ようやく決断した。結局は青二の言ったように、とりあえず商店街へ行ってみるという案だ。隠れ場所か移動手段か、どちらかを手に入れる為に。


「走る?」

「百メートルでバテる」


 二倍ほどサバを読んで、歩道を歩き始めた。一応は周囲に気を配るけれど、さすがにこの場所を見通すような、神のごとき力は持つまい。


 ピピピピピッ、ピピピピピッ。

 静まった夜の景色に、電子音が響き渡る。慌ててポケットをまさぐり、ガラホを取り出す。

 表情に乏しい青二さえ、きょろきょろと辺りに視線を配った。


 ――くそっ、出るしかないか。

 着信の表示は、相手を船場と示していた。出ない選択肢もあっただろうが、そう考えなかった。

 一つには、追われる身となったのを気付いていない。そう装う利点があるかもしれない。

 もう一つ、石車の件を直接に確認しておきたかった。


「はい。何か?」

『お前、今どこに居る』


 通話の向こうは、とても静かだ。おそらく屋外ではない。だが部下を動かして、のんびりしている男でもない。

 ――車で移動中か。


「青二を探してまして。もう少しで、さいたま市に入ります」

『家に居ろ、と言った記憶があるんだがな』

「すみません。居ても立ってもいられなくて」


 自宅に軽トラを置いたままなのは、当然伝わっているはずだ。だのにあの脅し文句だったことからも、危険を感じ取った。


『ふん、今はいいとしておこう。おとなしく出来んのなら、こっちへ来い。迎えをやる、正確な場所を言え』


 ――家に居たのを気付いてないのか? それなら。

 埼玉県と東京の地理なら、安いカーナビよりもよほど詳しい。最もそれらしい待ち合わせ場所を脳内検索する。


「ああ、すみません。じゃあ、ええっと――羽根倉橋で待ちます」


 はかな市から国道を進んだ先。道のりで三十キロも離れているか。池袋駅の東口と西口みたいなことをやれば、まだもう少し時間が稼げると考えた。

 部下が訪れたとき、家には居なかったと理解してくれればありがたい。


『……分かった』

「どうしました?」


 船場が関東の地名に戸惑うなどと、過去にない。調べれば済むとかでなく、この男は実際に詳しいのだ。

 すると他の何かを気にしたことになる。やぶ蛇かもしれないが、聞いておいたほうが良い。


『いや、分かったんだよ。圏央道沿いに居ることがな。おそらくは、お前の家の直近辺りだ』

「どっ――そんな、まさか」

『どうして分かったと言いかけたじゃないか。無駄な抵抗はやめておけ』


 ――どうして分かった⁉

 圏央道は首都圏外周部中央を、輪を描いて貫く。総延長は三百キロ近く、その中からこちらの居場所をピンポイントに言い当てられた。


『三度目だ、そこから動くな。迎えが行くまでな』

「分かりました、おとなしく待ちます。でもその前に、一つ質問しても?」

『何だ』


 仏の顔も三度ということか。青二の話し方と似た、感情を窺わせない口調。この先にあるのが、途轍もない怒りと想像させられる。


「石車は今、どこに居ます?」

『あの男か。お前の知る必要のないことだ』


 ――ああ石車。お前、本当に殺されちまったんだな。

 ありがとうございますと電話を切り、すぐさま青二に告げる。


「走るぞ、商店街まで」

「百メートルじゃ足んないよ?」

「どうにかする」


 深夜の圏央道は、ときに大型のトラックが通り過ぎるのみ。真っ白なコンクリートに、二人の足音が遠ざかる。

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