第45話:心をこめて

 躱す一瞬に見えた誰かは、腕を振り上げていた。まさか体当たりはすまいが、武器でも持っていたのか。

 しかしそれよりも、まずは車を止めねばならない。冷たいフレームに身体を押し付けようとする慣性を堪え、目の前に現れたブロック塀を左へ避ける。後輪が滑り始め、すぐさま右へ。

 浮いた車輪が路面に着き、暴れ馬のごとく鼻先が定まらない。

 理屈上はカウンターステアも知っているが、ぶっつけ本番で叶うものでなかった。とにかくも衝突する物のない方向へハンドルを切り続ける。


「ふうっ――!」


 再加速する前で良かった。両脇のブロック塀にも、狭い間隔で立つ電柱にもぶつからず軽トラは停車した。

 五、六回も荒く深く呼吸をして、握りしめて痛くなった指を離し、ようやくドアミラーへ眼を向ける。


 ――さっきの奴は……。

 くそったれと毒づきたかったが、まだ声が出ない。

 暗い街灯の光に、何者かの姿はすぐに分からなかった。だがじきに、その男のほうからこちらへ近寄ってくる。


 ――怪我してんのか?

 半袖のシャツに長ズボン。体格で男と分かるが、顔は見えない。歩き方がどうも、右脚を庇っていた。


「っつーか」


 追い縋ってくるなら、どうしてくれようか。自慢でないが、ケンカは弱い。

 そんな心配をし始めたところだが、無用らしい。やがて見えた顔は、これから探しに行くはずだった少年のものだ。


「青二!」


 軽トラを降り、後方へ走る。すぐに止まった気でいたが、五十メートル以上も行き過ぎていた。


「形無さん――」

「青二! おい、大丈夫なのか!?」

「ごめん、驚かせて」


 肩を貸し、支えてやる。「それほどじゃない」と青二は言ったが、嫌がりもしない。


「驚いたってか……いやまあ、驚いたよ。色々と。でも最悪のことにならなくて良かった」

「最悪のこと?」


 右脚は全く使えないわけでなさそうだった。おそらく擦り傷でもして痛むか、軽い捻挫だろう。


「この脚はどうした? 俺は当たってないよな」

「うん。車から飛び降りたときだよ」

「車から飛び降りたぁ?」

「この先の信号で止まって、走り始めたときにね。まだスピードはそんなにだったけど、挫いたかも」


 時速十キロ程度でも、自転車より速い。だから「死んでもおかしかないんだよ」と、少し怒気をこめて言った。


 ――この程度で済んで良かったけどな。

 思う気持ちと言葉と、逆にすれば良かったかもしれない。だが訂正はしなかった。


「どうなったら、こんなことになるんだよ」


 助手席に押し込み、シートの後ろへ放り込んである救急箱を取った。室内灯を点けると、剥き出しの腕が傷だらけだ。


「晩飯は食べたんだよ、焼肉屋で。店を出て形無さんに電話しようと思ったんだ。そしたらあいつに取り上げられた」

「あいつ? 父親か」


 青二は苦々しい顔で頷く。膝の具合いを見ると、やはり酷い傷があった。しかし脱臼や折れたりはしていない。

 足首を動かすと、小さく呻き声が上がった。捻挫をしているらしい。ちょうどサポーターを入れていたので、履かせた。ないよりはましのはずだ。


「これ、新品じゃないよね」

「洗ってあるから心配すんな」

「水虫は?」

「ねーよ。元気そうだな」


 ははっと笑う声に張りがない。怪我や肉体的な疲労でなく、心が参っているように見えた。


「腹は――食ってきたんだったな。甘い物とかどうだ?」

「いいね」


 込み入った話を聞く必要がある。もちろん落ち着くのなら、自宅へ戻るのが良いだろう。しかし何か、特別なことをしてやりたいと思った。

 脳裏に近隣の地図を思い浮かべ、深夜でも営業している店をピックアップする。それほど遠くなく、かといって賑やかな場所でもなく、当然に目的たる甘味がなければならない。


「メルトニャルトでいいか」

「サイコーだね」


 珍しく、お褒めの言葉を賜った。新所沢店なら二十四時間営業で、二階席がある。条件にぴったりだ。


「何を食うんだ?」


 道中は二十分くらいだろう。面倒な話は、せめてうまい物でも食べながらにするべきだ。


「この時間なら、夜メルトがあるよね? ダブルニャンコバーガーっての、食べてみたい」

「ああ、あれな。確かにうまそうだ、って。お前、焼き肉食ったんだよな?」

「食べたけど、おやつは別腹でしょ」


 走り出した車内に、焼肉屋独特の燻された煙の匂いが充満していった。


 ◇ ◇ ◇


「すごいね、検索しなくても開いてる店が分かるんだ」

「まあな」


 宣言通り、青二のトレーには通常の四倍もある巨大なハンバーガーが載せられた。それだけでなく、シェイクもチョコパイもアップルパイも。

 普段は「もういいのか?」と心配することさえある。それがこうとは、やけ食いのようなものに違いない。

 食って落ち着くのなら安いものだ。「いくらでも食えよ」と応援すると、「そんな馬鹿みたいに食えないよ」などと理不尽な返事があった。


「そんなにまでして逃げなきゃいけないって、何されたんだ」

「いきなり直球だね。嫌いじゃないよ」


 二階席に着き、トイレに誰も居ないのを確認して、すぐに問うた。どうせ聞かねばならないのだから、手早く済ませてやりたい。


「父さんの要求は、例の百五十万を寄越せってことだよ。もちろんオレは断った。最終的に、形無さんに返さなきゃいけない金だから」

「返す必要はない。けど、何でそうなった? お前の親父は、そんなに金に困ってんのか。借金は問題ないんだろ?」


 青二が頷くのは、唾を飲み込むのと同時だった。それでは潤いが足らなかったのか、Mサイズのバニラシェイクも肺活量の限り吸い込まれる。


「あのさ……」


 まだ硬かったらしく、難儀をした顎を青二は撫でた。だからか余計に、表情が暗く見えた。店の照明はケチらず、LEDが煌々としているのに。


 ――相当のことがあったらしいや。

 少年は握った拳を、開いて閉じる。自分で繰り返すそのさまを、じっと眺める。何か言いかけて、五分以上もそのままだった。

 無理に言わせるのは忍びない。だが、知らぬものは気遣ってやることも出来ない。


「青二。俺は大して何も出来ない、古道具屋だ。それでも出来ることがあれば、心をこめて精一杯にやる。それで客が不満なら、精一杯に謝る。逆立ちしたって出来ないことは、いくらでもあるからな」


 こうしていれば、誰もが満足したのに。

 ああしていれば、誰も悲しまなかったのに。

 永遠に取り返すことの出来ない、そんな想いを抱えての年月はこの上なく重い。だからこそ、二度と抱えたくない。

 目の前の少年に、抱えさせたくない。


「だからまずやるべきことは、要求を聞く。客ってのはいい加減なんだ。ネットで調べたとか言って、その見たところが大嘘だらけだったりする。満足いく古道具を見つけるには道具屋も客も、お互いに誠意が要るんだよ」


 じっと、俯きが深くなる青二を見つめ続けた。その彼は、至極小さく「分かってるよ」と拗ねたような声をする。


 ――間違えちまったかな。

 聞き出すのは、もう少し後。ひょっとしたら、数日も必要だったかもしれない。

 ならば言ったばかりだ。素直に謝ろう。そう思った矢先、青二は言った。ボソリと、囁く声で。


「へ太郎を殺したのは、船場だ」

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