第39話:何も知らなかった
宝田と別れて、これ以上ないくらいの早歩きだった。顔を見ていたくなくて、なるべく早くに距離を取りたかった。
だが走るのも、また違う。
――くそっ。何なんだ、今までどれだけ……。
どれだけのこともしていない。はかな市の片隅で、普通の学生として。卒業してからは、しがない古道具屋として。生活圏の中に居る人々から聞いたのを、そのまま伝えてきただけだ。
政治家の誰それは、愛人の飲み屋によく顔を出すとか。ヤクザの若頭が、商店街の裏通りで小銭稼ぎをしているとか。どこに行けば情報を掴めるのか、指定したのは宝田だ。
――俺はしょせん、それに従って動いただけだ。
今もまた、宝田の口にした綾の杜公園に向かっている。
力んでいるのが虚しくなって、脚を緩めた。やがてその歩調さえも疲れた気がして、立ち止まる。
「……公園に行くんじゃないの?」
「ああ」
商店は姿を消し、大通り沿いの住宅街に呆然とする男。どこにでも居る十人並みの容貌は、強いて言えば魚に似た。
愛想のいい顔と言われるのが、せめても救いだろうか。どうであれ、耳目を集める類ではない。
そんな形無に、青二は黙って着いてきてくれる。
「ああって、どっちさ。はっきりしなよ」
いや俯いた顔を下から覗き込んで、文句を言いながらも着いてきてくれる。
「行くさ。他にあいつの行く当ては知らないんだ」
止まった足を、また動かすことが出来た。この少年は、特に発破をかけたわけでなかろうが。
若さ故に。今どうするのかを、急いて聞いただけだ。けれどもそれしかないのだと思える。
石車が本当に犯人なら、捕まればいい。あの男が罪を重ねようと、知ったことでない。ただし、形無の与り知らぬところでならだ。
そうかもしれないと知らされた今、放置しておくことは出来なかった。
「ねえ」
「何だ」
広い歩道を並んで歩く。それぞれ前を見据えたまま、青二は問いかけを口にした。
「聞いてもいいのかな」
「だから何だよ」
「さすがに悪いかなって思うんだけど」
遠慮という言葉が、彼の辞書にもあるらしい。などと考えるのは、無益な時間延ばしだ。何を聞かれるのか、十中八九で予想がつく。
「変な質問だったら、これからの飯は全部焼きそばだ」
「ええ? それなら遠慮なく聞くよ」
嫌いな物を挙げたかったのに、そんな物もまだ知らないと気付いた。つまらんなと小さく舌打ちする形無に、青二は本当に遠慮なく聞いた。
「どういうことさ。へ太郎が犯人みたいな話だったけど」
「どうもこうも。宝田さんはそう思ってるんだよ」
「ええと、その。環さんを?」
やはり青二は、宝田との会話から要点を聞き取っていた。そういうことだと頷くと、「そっか」という淡白な返事があった。
「ストーカーに困ってると環に相談された。そのときは誰なのか分からなくて、俺は何もしてやれなかった。スマホで連絡を付けやすいようにしただけだ」
「送り迎えとかしなかったの」
「するとは言ったけど、断られた。相手が逆上したら怖いからって」
身近な経験はないのだろう。もちろんそれで普通だが。「そんなもんなんだ」と、青二は首を傾げた。
「それでもまあ、何かと理由をつけて会うようにはした」
「会って何すんの」
「そりゃあ飯を食ったり、映画とかボウリングとか」
「へえ、二人で?」
そんなことは石車と関係ないだろうに、補足説明を求められる。それでいて「そうだよ」と答えれば、反応は「へえ」だ。
彼と会った最初に戻った気分になる。
「警察が巡回してくれてるからか、表立ったことは起きなくなった。だからってわけじゃないが、俺も四六時中を環と一緒に居るわけでもない」
「だろうね」
彼女も同級生と食事に行ったりはする。そういう席の一つに石車が居た。後になって分かったことだが、あの男は環のスマホを盗んで去った。
その後すぐ彼女は殺されたと、掻い摘んで話す。
「つまりストーカーは、へ太郎だった?」
「あ、言わなかったな。そうだ、石車の部屋から、環当ての手紙とか持ち物とかが見つかった」
「たしかに怪しいね。ていうか、他に居ない感じはする」
「だな。あいつ自身、殺意は否定しない。でも殺してないって言うし、当日の行動も立証出来なかった」
話すうち、歩く通りは綾の杜公園に面していた。正面入り口を横目に見て、あまり車の来ない細い道路へ入る。園内の木立が右手に高く茂り、夏の空気をほんの少し和らげた。
道路を挟んで反対は県立高校があって、クラブ活動の声が賑やかに響く。
「何で言わなかったの」
「言わなかったって、何を」
「そんなとこへ行くなって。俺と一緒に居ろって」
きぃん。
甲高い音が耳に響いたのは、金属バットの打球音だろうか。だとすれば、アブラゼミの大合唱が途絶えた理由にならないが。
――ああ、そうさ。分かってる。俺があのとき、環の向けてくれた好意に気付けば良かったんだ。
気付いていれば、何が違ったのか分からない。しかし運命の選択というものがあるのなら、あの瞬間だったと思う。
だが、そんなことを言われても困る。
――知らなかったものを、今さらどうしろって言うんだよ。
前を見据えた青二は、五歩ほど行き過ぎて振り返った。またも動かなくなった形無を、怪訝に眺める。
「俺のせいなんだ」
「えっ?」
「俺が知らなかったから。環は死んでしまったんだ」
「いや、ちょっ――形無さん?」
過ぎたことだ。今は当然に、あのときも。何もかも、間に合わなくなってから知ることばかりだった。
「俺を好きで居てくれたことも知らなかった。あいつを好きな俺のことも知らなかった。知っていれば、飲み会になんか行くなって言えたのに」
両の膝から力が抜けて、地面に着いた。痛いはずが、感じない。代わりにこみ上げた感情は重く、焦げつくような嫌な熱さを持っていた。
身体から何か抜け落ちそうで、頭を抱えて震える。
寒かった。罪の意識が、八月の晴天をブリザードの最中に変えた。
「何かあれば俺に連絡してくれるって、馬鹿みたいに信じてた。出来るわけないんだ、スマホはあいつが盗んでたんだから。分かるか? 知らないものは知りようがないんだ。知ろうとしなきゃ、そこにあっても知れないんだ」
「形無さん、ねえ大丈夫? ねえ!」
駆け戻った青二が、肩を揺らす。聞こえている、大丈夫だと、考えるだけで返事にはならなかった。
声として出たのは、後悔の想いだけ。
「俺が何もかも知ってれば、環は死ななかった。でも信じてくれよ、俺は知らなかったんだ!」
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