第38話:焦がしつくす
七年後の現在。ラパンはまだ、普通に走れるはずだ。けれども実際そこにあるのは、ボロのワゴンR。降りてきた宝田は、ぐうっと溜め込むように伸びをする。
「おい」
見てみぬふりをしたのに、少しやつれた刑事の口はそう動いた。
それでも無視をしようとしたが、手招きもされた。明らかに、気付かぬふりを気付かれている。
「お仕事中ですか」
「見ての通りだ。お前は何してる」
仕方なく傍へ行って、ご機嫌伺いに問うた。ぶっきらぼうなのは、いつも通り。痰を絡ませながら喋るのは、車の中へ長時間居たからだろうか。
「飯を食って帰りです」
「帰り? わざわざこっちに車を停めたのか」
形無の好む安価な飲食店は、アワワ商店街に集中している。近い駐車場はいくらもあって、こちらへ来る合理的な理由がない。
「帰ろうと思ったら、石車が居なかったんです。それでこっちに居るかと思ったんですよ」
さっきのはまだ説明の途中だったのだ。十分に言いわけ出来るが、宝田はそこに拘らなかった。
「奴なら昨夜、ここを通った」
車内へ頭を突っ込んだ宝田は、飲みかけだったらしい缶コーヒーを取り出す。残りを一気に煽り、あくびをして見せる。
「ここをですか。どこへ行ったんでしょう」
「さあな。また綾の杜じゃないのか」
「――追わなかったんですね」
石車がどこへ住んでいるのか、形無は知らない。ただし少なくとも、はかな市駅方向だ。何度か「もう帰って寝る」と見送った方向が、そちらだった。
今居る通りも、綾の杜公園も逆方向になる。宝田が言うのは、かつて石車がこの通りを歩いて往復していたことを指している。
「今はあそこに居る男から、目を離すなと言われてる。サラリーマンなんでな」
五本並んだ極太ウインナーのひとつが、青海楼のほうへ向けられた。船場はまだ、あそこから出てきていないらしい。
公務員もサラリーマンには違いなかろうが、言った背中が縮こまって見える。
以前の宝田は強引すぎたが、それで良いのだと周囲を納得させるような雰囲気があったのに。
――環の件は諦めたのか?
犯人に違いないと今も思っているはずの石車を、どうでもいいような言い方をした。
ラパンを手放したらしいことと併せれば、冷めたとしか思えない。そこにあるワゴンRのように、古びた熱情を剥がしてしまったのか。
「お前さんには悪いことをしたのかもしれん。この街を離れてから、そう思うようになった」
「え――いえ、何のことです?」
車の屋根に肘を乗せ、宝田は青海楼を眺める。こちらの問いも聞こえぬように、「うまいんだろうな」と独り言を挟んで。
「娘はお前さんを好いとったんだとさ。妻が言ってたよ」
「は、はあ。どうも」
「その男にも心の整理に必要な時間はあっただろうってな。叱られた」
そうかもしれない。けれども宝田に言われて、情報を集める日々でなかったら。
今ごろ自分は、どうなっていただろう。想像しきれるものでないが、もっと荒んだ人間だった気もする。若しくは石車と同じように、心を壊していた。
「それが理由じゃないだろうが、妻は
「それは大変ですね」
何を話したいのだか、取り留めがない。張り込み中に、これほど話していていいのかとも思う。
それでなくとも、長話をしていたい空気ではなかったが。
「しかしだ。あれこれ間違っていたのかもしれん。そう考えると、違う道すじが見えてきてな」
「違う道? 石車以外にってことですか」
ポケットを探った宝田の指が、箱にも入らないタバコを取り出す。のろのろと咥え、火を点けて、車の屋根に顎を乗せる。
呼吸というのは、吸えば吐かねばならないのだ。それも忘れたように、ゆっくりと深く、無骨な刑事は胸を膨らませ続けた。
「宝田さん?」
ぶはあっ。噛みつかんばかり開いた口から、濃い白煙がもうもうと立つ。
同時に、一瞬前まで眠そうだった目付きに鋭さが宿る。いっそ殺気と言って良いほどの。
「昨夜。高校生を連れた男が、あの店に入った。しばらくして出てくると、船場の部下が見送っていた。怪しいと思った矢先にだ」
それは見間違いだ。何かの勘違いだ。と、弁解を組み立てようとした。
けれどもたしかに店を出るとき、船場の部下が何人も居た。見送りではなかったのだが、親しく話もした。
その場面を見られてなお、説得力を持たせることは不可能だ。
「だが、今は放っておく」
まずそうに顔をしかめ、宝田はタバコを足下へ投げる。まだまだ長かったそれを、念入りに踏み付けた。
こうすれば不法投棄の証拠は無くなると、手本のように。
「ここ二、三年、東京で事件が続いててな。いや事件のない日なんぞ無いんだが、気になる事件ってことだ」
黙ってしまった形無に、先を聞けよとばかり。振り返った宝田は、返事を待つ。
「――と言うと?」
「お前さんも気になるはずだ。関係があるのかないのか、どちらにしてもな」
いくら探られても、痛む腹がない。だのに口の中が乾く気がした。唇を舐め、唾を飲み込む。と、宝田がニヤとする。
「およそ三カ月に一度。飲み屋帰りの女が襲われてる。客だったり従業員だったり、とにかく飲み屋からの帰りだ」
一年に数度であれば、東京でその手の事件は珍しくないのでないか。被害者には申しわけないが、そう思った。
だから「続いている」と言わしめるだけの何かがある。口中に留まらず、身体中を干上がらせるような、厭な予感がした。
「殺されたのは居ないが、被疑者にはおかしな癖があってな。どの女も服を破られて、その布で首を締められてる」
首すじからわき腹を、寒気が走る。しかし同時に、一つ高く打った心臓が、血潮を熱くさせる。
ギリッ。と、震えた唇の裏で奥歯が鳴った。
「何だ。どうして知ってるってのか? 情報屋は、お前さんだけじゃない」
あからさまな、馬鹿にした口調の宝田はいい。無視出来ないのは、その暴行犯だ。手足が揺れるのは、単純に怒りではなかった。
「先週辺りがその三ヶ月だったんだが、今回はまだ起こっていない。見張られてるのに気付いたのかもしれんな。しかしまあ、動き出したようだ」
「石車がその犯人ってことですか。泳がせて捕まえれば、今度こそ環のことも言い逃れ出来ない」
宝田は微塵も諦めてなどいなかった。むしろ他の女性を囮のように考えて、石車の悪事を暴こうとしている。
その熱は冷めたどころか、ワゴンRを灼き尽くさんばかりだ。
「そうだ。よく分かるじゃないか」
「もしも石車だったとして――」
「もしもじゃない。奴なんだよ」
賢い高校生、青二の手が腕を引っ張った。分かっている、関わるなと諭してくれているのだ。
だが、これだけは言わずにおれない。
「石車だったとしても、次はさせませんよ」
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