第37話:嫉妬と恨みの赤

 平晟二十六年十月三日。

 事件からおよそ二カ月後にも、赤い車を見た。もっと丸みを帯びた、真新しいラパンだったが。

 大学の前に停まったのはその一台だけでなく、辛気臭い白黒の車も一緒だ。


 ――もう来たのか。

 と予想外ではあったが、意外でない。宝田警部補が部下を連れて何をしに来たのか。きっと大学でただ一人、形無だけが知っていた。


「石車陰実に間違いないな。平晟二十六年七月二十五日の深夜、宝田環を殺害した容疑で逮捕状が出ている。覚えはあるか?」

「僕がですか? 覚えはないなあ、先を越されたんだから」

「きさま……」


 逮捕令状の示された隣で宝田は、挑発的な返答に歯ぎしりした。その紙きれを破り捨て、殴り殺す衝動を抑えていたに違いない。

 環に付き纏い、気色の悪い手紙を送り付け、永遠に手の届かぬ場所へ送ってしまった男なのだから。


「形無くん。環さんの交際相手である君に聞くが、あれは同じ大学の石車に間違いないね。そして環さんに付き纏った、ストーカーでもある」


 思えば強引だった。どうやら警察の描いた筋書きは、恋人を奪われた哀れな男として形無を仕立て上げることだ。


「交際相手ってことはないですが、間違いありません」

「あの日、部外者になる飲み会へ無理やりに参加した。そこへ凶悪にも、君を誘った」

「一応誘われたそうですが、浮いただろうとは思います」


 白々しいマジックミラー越しの面通めんとおしにも、嘘でないが事実でもない憶測がでっち上げられていく。


「そうか。君は彼女を迎えに行こうと、近所で待っていた。しかし来なかった。つらかったね、間違いないかな?」

「いや、まあ。間違ってはないですが」


 全ては宝田の指示だ。本来、被害者の近親は捜査に関われない。だが憎しみを燃やす父親は、自分より格下の捜査班長を操っていた。

 宝田と捜査班長は、石車の逮捕に至るまで何度もやって来た。手紙や環の撮った写真を元に、石車が犯人であると証拠が固められていく。

 遠目の服装や、顔の一部だけが写った写真。警察官の撮った写真と比べて見せられてから「どうかね?」と。

 そんな風に聞かれては、「石車に見えますね」としか答えられない。


「あの殺人鬼め。動機は話すのに、肝心の犯行を言わん。形無、あいつの行動を見てた奴を探してくれ」


 石車がストーカーなのは事実だった。盗撮した動画や写真。環の捨てたゴミや、衣服を含んだ持ち物が押収された。

 また何百枚もの便箋に、日記めいた文章も残されていた。


『環。僕は君に魅了されてしまった。明るくて、僕のような日陰者にも優しい。これから君のことだけを思って生きるよ』


『環が僕と高校も一緒だったなんて、何ともったいないことをしたんだろう。その分を取り返せるくらい、大切にするからね』


『僕は悲しい。環は僕以外に親しい男が居るんだね。友人が多いのはいいことだけど、それ以上なのはダメだ』


『どうして環は、意地悪をするんだい? ジュースをあげようと思ったのに、誰ですかなんて。そんな風に照れるところもいいんだけどね』


『笑える話があるんだ。君に渡すはずのジュースを飲んでしまった。だから昨日は、ずっと起き上がれなかったよ。僕はどうしてこう、うっかり者なんだろうね』


『環はまた、その男と一緒に居るのかい。知っているよ、見せつけているのは。そんなことをしなくても、僕には君だけだよ』


『形無。どうしてお前がそこに居るんだ。いい加減にしないと、◯してしまう』


 最後の文章は、殺すという字が掻き消された。

 環を見初め、自分の物と思い込み、形無を憎む。石車の心情が移っていく様子を克明に語るものだ。同時にたくさんの封筒も見つかっていて、どれか、あるいは全部を環に送ろうとした。

 結局送ったのが一通だけである理由は、答えていないようだが。


「石車さんですか? あの日は飲み会の途中で帰って、その後どうしたのかは――あ、でも。宝田さんでしたっけ、スマホがないって探してました。あの人の仕業かもしれないですね」


 後輩連中に聞いても、飲み会の最中以外の行動を誰も知らなかった。ついでに言えば、石車の住む場所を知る者も居ない。

 宝田に教えられて行ったときには、家族が引っ越した後だ。

 高校のときの同級生を訪ねてきたと、近所に聞いてみた。すると気味悪げな態度をされるだけで、石車当人の話は全く出てこない。


「次の日なんですけど、あやもり公園に居ました。池に何か投げ込んでました。凶器ですよきっと。え、もう見つかってるんですか。僕ですか? 自衛隊車両を撮るのによく行くんですよ」


 別の後輩から聞いたのを宝田に伝え、警察が捜索すると、環のスマホが見つかった。

 犯行に直接繋がる物でないが、遺体の捨てられた薄納基地の外来搬入口と隣接する公園だ。

 それにせっかく盗んだ物を、どうして捨てたのか。環が生きていないことを知った行動として、有力な証拠と見られた。


「やっぱりあいつが環を……」


 日が経つごと、確信が強まっていく。形無だけでなく、大学内でも、はかな市のあちこちでも。

 何気なく入ったラーメン屋で、平和な我が町に起こった凶悪事件を論ずる声が耳に入る。

 環への同情もあったが、多くは石車への非難だ。ただ酷いというのでなく、「気持ち悪い」と嘲笑めいた。

 だが、逮捕から二十二日後。石車は釈放される。犯行時間の行動が、どうやっても証明できなかった。


「形無くん。手間をかけたみたいだね、僕は君に謝らなきゃいけないんだ」

「謝る? 白状する気になったのか」

「いいや。彼女に謝るとすれば、僕の手で幸せにしてあげられなかったことだねえ。そうじゃなく、君にだよ」


 幸せとは、具体的にどういう状態を指すのか。ケンカらしいケンカをしたことのない形無も、瞬間に煮え滾る。


「お前えっ!」


 学生課の正面。殴った男が誰で、殴られた男が何者か。見ていた職員にも学生にも、知らぬ者は一人として居なかったはずだ。

 だから誰も、目を逸らした。


「痛いなあ。謝りたいだけなんだよ、話を聞いてほしいな」

「何を謝るってんだ!」

「君を環と同じ場所へ送ってあげられなかったことだよ。僕はね、環の希望を叶えてあげようと思ったんだ。でも妬きもちのほうが強かった。だから君を、殺してあげない」


 ひゅうっと、風の吹いた気がした。

 冷たく、それでいて粘っこく。いつまでも素肌に纏わり付く。氷で出来た蜘蛛の糸と言われれば、きっと信じた。


「お前が殺したんだな」

「嫌だな、言ったじゃないか。僕は環を幸せにしてあげられなかった」


 その日、石車は大学を辞めた。

 以降、姿を消せば、悪人として普通と評価された。しかしあの男は、より目立つようになった。


「どこかなあ。探してるんだ、誰か知らないかい?」


 うわ言のように繰り返して、街を歩く。最初はさいたま市や、大宮方面の飲み屋街を。その姿が、ローカルニュースに何度か取り上げられた。

 誰彼なくだったが、若い女性に付き纏う行為が目立った為だ。軽犯罪法などを問われ、何度も警察の厄介になった。


「えへへ。綺麗な女の子が一人で歩いてたら、殺されちゃうよ?」


 そんなセリフを吐く場所が、はかな市に移る。長く伸びた髭と髪と、やつれた頬。

 綾の杜公園からアワワ商店街の約一キロを往復する。何度も、何度も。毎日欠かすことなく。

 もう商店街の人々も、それが誰か気付かない。いつしかトレンチコートを羽織るようになり、入り口の交差点へ立ち尽くすようになった。


「石車。お前、こんなとこで何やってんだ」


 何度尋ねても「えへへ」と笑うだけ。


「いい加減にしろよ。どれだけ馬鹿にすりゃあ気が済むんだ」

「えへへ」


 形無だけでなく、近隣の荒くれに絡まれる場面も見た。何度もだ。

 それでも石車は、笑う。


「頼む。お前がやったんでなけりゃ、誰なんだ。教えてくれ、何か知ってるんだろ?」

「えへへへ」

「お前、壊れちまったんだな……」


 真相は分からない。警察に捕まり、報道が重ねられ、石車は街じゅうから忌避された。家族も連絡がつかないと、学生課が困っている。

 一人の大学生が自我を失うには、十分だっただろう。


「あいつは絶対に知ってる。聞き出してくれ」


 次の春。誤認逮捕と越権行為の罰を受けて、宝田は巡査部長に降格した。その上で、自宅から最も遠い署への左遷となる。

 去り際、恨みの消えぬ眼で頼まれてしまった。どんな小さなことも教えてほしいと。

 宝田は愛車のクラウンを手放し、娘にと買ったラパンで、はかな市を去った。

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