第35話:立場は変わる
「宝田さんですか、形無です。例の密入国なんですが、やっぱり船場のところが怪しいかと。輸入家具を運ばせる人員に混ぜてるみたいです」
売れ残りを自宅へ戻し、指定された店に向かう車中。船場を怪しんでいた宝田に、電話をかけた。
「具体的な社名ですか? 警察が調べれば、すぐに分かりますよ。最近買収したところが主力だろうってだけ言っときます。ええ、間違いないです」
根拠は向こうから問わない。話して問題がないのなら、こちらから言うことになっている。
宝田は吟味の時間をいささか持って、やがて「調べてみる」と通話を終えた。車の通る音が近く、まだ仕事中のようだ。時刻はもう少しで、午後九時になる。
「急にそんな手の平を返して、大丈夫?」
「俺が言ったってバレなきゃ問題ない。今までバレたこともない」
青二の心配はもっともだ。しかしその点、宝田を信用している。
環の父親だから、ではない。今までにも多くの話題を提供したが、不都合を得たことがないからだ。相手にはいわゆるヤクザや大きな企業、政治家もあったというのに。
「距離を置くったって、俺がそのつもりでも向こうは構わずに来る。あっちに遠退いてもらうしかないのさ」
「捕まらないにしても、おとなしくしてろってことか」
「その為の国家権力だからな」
公務員を公僕だとか揶揄したことはない。そんな強がりでも言わなければ、不安だった。準備を整えようとした矢先に呼び出され、友野に榧材のことを聞く暇もなかった。
手放した品をわざわざ、しかも急ぎで聞くなど、何かあったと知らせるようなものだ。
「遅刻だね」
電話の後、十数分。約束の時間を僅かに過ぎた。古物市の駐車場から出るのに、混み合ったせいだ。
「そのくらい、お見通しだろうさ」
言って降りたのは、中国酒家『
船場の部下かと思ったが、店の従業員のようだ。さすが、はかな市で最も値の張る店だけはある。こちらの車はオンボロの軽トラで、申しわけない気がした。
「ここ、こんな格好でいいの?」
間接照明が、夜闇に赤い建物を浮かび上がらせる。大昔に見たカンフー映画で、悪の首領が巣食う建物のようだ。Tシャツにジーパンにスニーカーという青二が、ドレスコードを気にした感覚は正しい。
形無とてカーゴパンツにTシャツで、同じと言って良かった。せめてもと思い、シートの背に投げっぱなしの上着を取る。焼け石に水でも、しないよりは良かろう。
「燕尾を着てこいって言わないのが悪い」
「エンビ?」
服装を理由に入店拒否されるほうが、都合のいいことに気付いた。黙って帰るわけにいかないので、解決にもならないが。
覚悟を決めて正面の扉を抜ける。と、並んで頭を下げる男女に迎えられた。やはり黒服の男は、執事然とした白髪の老人。中国の給仕服を着た女性はまだ若い。共に日本人だ。
何を言う前に、老人が女性に小さく言いつけた。すると女性は「お連れさまがお待ちです」と案内を始める。
――おいおい、作業服の汚い男とでも言ってあったのか?
どんな顔をして良いか分からず、卑屈に頭を下げた。形無が修繕したような家具が、十人で歩けそうな廊下のあちこちに置かれている。陶器は難しくて専門外だが、どう考えても高そうな花瓶に大きな牡丹が詰め込まれた。
足下は緋の毛氈で、踏む度に数ミリほど沈むのが伝わってくる。調度品込みの坪単価はいくらか、考えると震えがきた。
「案内はここまでと申し付けられております」
二階の奥まった、分厚そうな扉の前で女性は深々と頭を下げる。「あ、どうも」と寝ぼけた声で言うと、気持ちのいい笑顔で去っていった。真っ直ぐに伸びた背が角を曲がり、見えなくなるまで待つ。
深呼吸をしてノブに手をかけ、意味もなく青二の顔を見た。
「何?」
「いや、何でもない」
彼の表情は、もういつもに戻っていた。不満というほど強い感情でなく、何だかつまらなそうな、平坦な顔。
度胸があると評すれば、おそらく違う。金のあること、贅を尽くした場所の意味をまだ知らないのだ。
けれども、それをいいと思う。
この少年を笑わせ、呆れさせ、軽口を言わせた時間。まだまだ想い出と呼ぶには若い記憶が、落ち着きをくれた。ここは悪の本拠地でなく、辮髪をした武術の達人も登場しない。
「お待たせしました」
無垢の重量を感じる扉を開け、十畳くらいの部屋に踏み入る。円卓には船場が一人、悠々と脚を組んで座った。
「もう少し遅れると思った。急がせたな」
「いやまあ、少しですよ」
「たしか今、中国家具を直していただろう。参考になればと思って、この店にした」
着席を勧めるよりも前に、いきなりだ。顔の引きつるのを、奥歯を噛んで堪える。そしてまた次の句を継ぐより先に、船場はニヤと笑う。
「私にも色々と考えねばならんことはある。察してもらえるとありがたい」
「は、ははっ。俺は察しも要領も悪くて、すみません」
愛想笑いが喉に引っかかった。船場は鼻で笑い、「座れ」と手で示す。
広いテーブルを三分割すると、喉が乾いてきた。持参したパスポート入りの紙袋は、テーブルの下へ押し込む。
「青二、好きな物を食え。この男はものを知っていても、食い物に無頓着だ。カップラーメンもいいが、まともな食事もせんとな」
「カップメンだけじゃないよ。形無さんは、しゃぶしゃぶとかうどんとか、色々連れてってくれた」
胸を張りたいところだが、ひと皿ごとに数万円が飛ぶ店の中だ。余計な勝負はしなくていいと、胸の内でストップを出す。
「ふっ。随分と懐かれたな」
「そうですかね」
どうにかまともに答えると、船場は既に始めていた中国酒を飲んだ。形無は飲まないと知っているので、それは勧めない。
「ああ、そうだ。このテーブルも値打ち物らしい。私にはそれほどに見えないんだが、お前なら分かるか?」
先には中国家具ときて、また脈絡もでたらめにテーブルの話題。そもそも対話の場所に、この店を選んだ理由。どう考えても、本命は別のところにある。
相手に自分からミスを申告させるとき、船場はよくこういう話法を使った。同時に、許す余地のある場合だ。
「船場さん、申しわけない。全く知らなかったんです」
「ん、どうした」
「いや中国家具に仕込んだ榧材を、船場さんのとは知らずに売り払って」
着席のまま、頭を下げた。船場の持つ小杯が止まるのを、上目遣いに見る。
「ああ、その件か」
やはり知っていた。何もかも分かっていて、こちらの出かたを見ていたのだ。ここまであからさまなヒントを出してもとぼけるようなら、自由にはさせておけないと。
船場は静止させた小杯をまた動かし、中身を飲み干した。そうしてそれを、円卓の中央近くに置く。
「飲めないわけじゃないんだろ? 一杯くらい付き合えよ」
凍りかけた首を何とか縦に揺らし、応じた。すると船場は席を立ち、酒瓶を持って歩いてくる。形無は席から腰を浮かして、小杯を取った。
「私は善人でない。だから他の奴らにも、正直者で居ろと言える口を持たん。だがまあそうしてくれる者を、大事にすることは出来る。形無、お前には貸しも借りもある」
「俺に貸しはともかく、借りですか」
表面張力のいっぱいまで、酒が注がれた。ゼリーとも思える琥珀色の液体を、ゆっくりと唇から近付けていく。
鼻を衝く、漢方薬めいた匂い。嫌いでないが、強烈だ。宥めすかして喉を通したのに、次の呼吸で咽た。
「気にするな。たまにはお前にも、そういう役得があっていい。もしかしたらと私を思い出してくれるようになれば、なお嬉しい。その件で言いたいことはそれだけだ」
「えっ、と。それだけ?」
「何だ、罰が欲しいのか」
もうかなりの量を飲んだろうに、船場の足取りはサッサッと隙がない。上座に戻った男に問われ、「いえいえ」と首を横に振った。
「宝田という刑事が嗅ぎ回ってる。お前の縁者だろう」
「縁者というわけでは」
「いや、今のは失言だった。しかし知った人間なのは違いないな?」
榧材の件が終われば、残るは石車の話だ。言ってしまえばただのホームレスを、どうして船場が気にするのか。
その意図はともかく、模範解答を用意していた。だのに問われたのは、宝田の名。そりゃないぜと言ってしまうのを、すんでに止める。
「それはまあ。環の父親ですから」
「その件とは別にだ。どうやら私だけでなく、お前のことも探っている」
「俺を?」
宝田が警察官である以上、船場との関係を知ったなら、調べて当然だ。
だがそんな気配は感じなかった。墓所で再会したとき、自宅を訪ねてきたとき。つい先ほどの電話でも。
だいいち船場とのことを知っている人間は、互いのほかに居ない。調べようがないはずだと考えて、まさかと疑う。船場も自分を陥れるような真似はするまいに。
「壁に耳ありと言うが、あれは本当だ。お前には釈迦に説法かもしれんが」
「気を付けますが――」
「が?」
可能性として、石車はどうだろう。船場の「せ」の字も言ったことのない男が、昨日突如として口に出した。
因縁浅からぬ、あの変人なら。全くの憶測を宝田に伝わるようにしてもおかしくない。
「それが石車の話ですか」
「ん、そういう人間なのか?」
「いえ。あいつは――あの男とは、高校と大学が同じなだけです。親しくする縁がなくて、どんな人間か知りません」
嘘ではない。石車の人間性をひと言で表すなら、「わけの分からない男」だ。あれの人となりを理解しているとのたまう者が居れば、大嘘吐きのレッテルを貼れる。
「親しくする縁がない? 親しくする縁
「そう、なりますかね」
ぎろっと眼力の強い視線に刺され、まばたきが早まった。酒のせいと言いたいが、違う。
「石車については、一つ聞こうと思った。お前の顔を見ながらだ」
「何をです?」
「どう思っているか、とな。もう済んだ」
そんなことを聞いてどうするのか、またも分からない。
けれどもこれで用意された話題が終了なら、やり過ごせたことになる。後は勧めに従って、せいぜいうまいものを食って帰るだけだ。
目論見はその通り果たされた。グルメ番組くらいでしか見たことのない料理で、腹がいっぱいになった。船場が話しかけるのも、もっぱら青二にだ。彼には悪いが、おかげで贅沢な食事を堪能する余裕ができた。
「え、オレもちゃんと食ったよ。食べながらでも返事は出来るし」
翌日。詫びにと連れて行った昼食を終えた後で、少年はやはり強者っぷりを示す。
「お前、すげえな」
アワワ商店街の牛丼店。高級中華には叶わずとも、十分にうまかった。そしていつもの商店に寄って、いつものカップ酒を買う。石車が余計な真似をしているなら、これも渡すわけにはいかない。
「何がすごいんだよ、って。あれ?」
少年は商店街の入り口を見やって、声を上げた。褒められたのがくすぐったくて、そうしたのだろう。そう思った。
けれども彼は、そこへ走る。へへへのへ太郎と近隣の人々に呼ばれ、親しまれはしなくとも風物詩となっていた男の居る場所へ。
だがそこに。三角形をした変形の交差点に。いつも立っていた、だらしのないトレンチコートの男の姿はない。
――第二幕:戻せない過去 終――
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