第23話:別れの夏

「暇なら飯でも食いに行くか?」


 思えば自分から誘い出したのは、それが初めてだ。あとはいつも環からか、その場の流れのようなものだった。

 連絡を取りたがっていたようなので、少なくとも一日置きにメールをするようにした。合間に呼び出されて直接会っても、ペースは変えない。

 ゴールデンウィークに入って、わざわざでなければ会えない日が続いた。こちらから連絡したのはそのせいだけでなく、環の様子がおかしいと感じたからだ。

 いつも彼女は、メールでも朗らかだった。それがここ三回ほども、絵文字の一つさえない。


「お願いします。迎えにきてもらっていいですか」

「お、おう」


 食事の誘いへの返事にしては、抑揚に乏しい声。有り体に言えば、誰かに叱られた後のように。

 異変を感じて、すぐに駆け付けた。父親に叱られたとかならば問題ないが、そうは思えなかった。

 宝田家は、航空自衛隊の薄納基地に近い。その家の前に車を停めたのは、もう十回や二十回ではきくまい。


「来てもらってすみません」


 礼を口にしながらも、環の視線は形無に向かなかった。厳しい顔つきで周囲を万遍なく見回す。


 ――何かあったな。

 察したが、聞かなかった。代わりに行き先の希望を問うと、「遠くがいいです」と彼女は答えた。十分か二十分ほど走ってようやく「はあぁ」と、ほっとしたように深く息を吐く。


「何があった」


 やっと問うたのは、横浜の少し値の張りそうなレストランに入ってから。ここまでは急かすようで、言い出せなかった。


「誰かに付き纏われてるみたいなんです」

「付き纏い――ストーカー?」


 環は明るく答え、頷いた。いかにも気にしていないという風に。

 けれども改めて見ると、彼女の服装がいつもと違う。肩や腕を露出させる開放的な物を好むのに、重苦しい印象の長いスカートと野暮ったいトレーナーだった。


「いつからだ? お父さんには?」

「はっきり分からないけど、二月くらいからです。お父さんは毎日遅くて。一応言いましたけど、そんなの気のせいだって」


 三ヶ月ほども、環は相談しないでいたと言った。

 ショックだった。全幅の信頼を寄せられていると思っていたのに。


 ――いや、違うか。

 相談でこそなかったが、環は助けを求めていた。いつでも連絡を取れるようにしてくれと、何度も言われた。

 あからさまだったはずなのに、気付いてやれなかった。思わず、過去の自分に舌打ちをする。


「形無さん――?」

「あ、いや今のは違う。気付けなかったのが悪いと思って」

「いいえ。私も、おかしいなとは思ってたんですけど。偶然かもしれないって都合よく考えてて」


 あくまで、にこやかに。環は形無の非を責めない。自分の勘違いかもしれないからと他人を貶めようとしない彼女に、罪悪感がいや増した。


「疑ったっていいんだよ。それは決めつけじゃない。そうかもしれないと思って、たしかめてみなけりゃ、本当のことなんて分かりゃしない」

「そう、ですね」


 躊躇いがちに、環はポーチから何かを取り出した。受け取るとそれは、茶封筒に入った手紙のようだ。


「僕のことを好きにならなくてもいい。ただ僕が君を愛していることを、知っていてほしい。ずっと見ている。いつまでも見守っている」


 ペン字のお手本のような几帳面な字を、誤りがないよう声に出したのを後悔した。

 環は小さく震えて、おどけた風に肩を竦める。


「誰だ。相手は分かってるのか?」


 手紙に名前はなかった。直筆なので、筆跡を照らせば分かるかもしれないが。

 環は首を横に振り、この手紙も四日前に初めて来たものと答えた。


「今までは、失くしたと思った物が不意に出てきたりとか。友達と話してるときに欲しいねって言った物が、私当てに教室へ置かれてたり。見られてるなっていうのも、気のせいと思ってたんですけど」

「だから大学に来いって言ってたのか……」


 二拍ほど。彼女は躊躇って、頷く。


「すまん!」


 声の大きさに、周りの客がざわめいた。すぐに気付き、小さく頭を下げて執り成す。

 環はまた否定に首を振った。


「形無さんが悪いことなんて、何もないですよ。私が勝手に頼らせてもらおうとしただけ」

「頼ってくれ。頼むから頼ってくれ。俺はお前を可愛いと思ってるんだ。それを何かあってから知らされたんじゃ、立つ瀬がない」

「えっ。そんな、こんなときに何を言い出すんですか」


 彼女は両手で顔を覆う。これほど急に発熱でもあるまいし、痛みを振り払うように頭を振りもした。


「こんなときだからだよ。俺の可愛い後輩が困ってるときに、頼りがいのない先輩とかまっぴらだ」

「可愛い、後輩?」

「あ、ああ。俺の可愛がってる、唯一の後輩だよ」

「そうですか……」


 再び見えたのは、普段の環だった。もちろんそれは表面的なものだろう。勝ち気な面のある彼女でも、幾ばくかの怖れはあるに違いない。

 こうして話す間、気持ちが紛れるだけでも自分の励ます意味はある。そう考えた。


「形無さん。体育祭のとき、救護係でしたよね」

「え、お? ああ、うん。高校のな」


 また唐突に何の話か、戸惑った。ともかく思い出すと、救護係の名目で体育祭なるイベントに参加したのは、高校三年のとき。

 言われた瞬間は「そんなことがあったか」と疑うほどに薄い記憶だ。


「みんな面倒くさそうにしてるのに、形無さんは一所懸命やってましたよね。女の子の膝に、傷を残したら駄目だとか言って」

「言ったかな――って、何で知ってるんだよ」

「それは知ってますよ。言われたのが私なんですから」


 段々と、情景が蘇ってくる。あの初夏の涼しい一日で、手当てをしたのは二人か三人。そのうち一人が、言われてみれば女子だった。


「障害物競争で跳び箱に足を引っ掛けて転んで、膝から下を真っ赤にしてたのが居たけど。お前か?」

「そこまで思い出して、何で顔が分からないんですか」


 望んだのでなくとも、与えられた役目だ。他の連中が流血に怯む中、脚を洗ってやった。傷は大したことがなくて、絆創膏ではちょっと足らない程度だった。


「悪い。傷に残った砂を取るのに夢中だった」

「でしょうね。丁寧っていうか、しつこいっていうか。嫁入り前の娘が、みたいなことも言い出すし。あのときから、お父さんに似てると思ってました」


 苦笑いでごまかそうにも、ストーカーの話の直後だ。渋い顔で頭を掻くしかない。


「ええと。それとこれと、関係あるのか?」

「ありますよ。ずっと形無さんは、私の先輩ってことです」

「そりゃそうだけど」


 結局その場は、ニャインの設定をさせられるに留まった。付き纏いの件は父親でなく、受け持ちの警察署に相談してみると環は言った。


「しばらく大学まで、送り迎えしてやろうか?」

「いえ。そういう姿を見せると、逆上するかもしれません。どうしても危ないようなら、またお願いするかもですけど」

「分かった。遠慮するなよ」


 彼女を家まで届け、それから毎日。朝と夕刻と、ニャインのメッセージを送った。「朝飯食ったか」とか。「暑くなってきたな」とか。その程度。

 しかし既読のマークがすぐに付くものの、返事は必ず昼食どきや就寝前になった。しかも「食べました」、「暑いのでもう寝ます」などと、後の会話が続かない。

 既読スルーとは違うのだろうが、寂しい気持ちを覚えた。


 ――もしかして俺、環のことが好きなのか?

 彼女からの発信が減って、ようやくそんなことに気付く。ないものねだりのようで、恥ずかしく思った。

 だからもう一度仕切り直す意味で、頻繁に食事や遊びに誘う。すると彼女も、喜んで応じてくれた。


 ――何だ、課題が忙しかっただけか。

 二年の始めであれば、まだまだ追われる面もあるだろう。当人に聞いたわけでもなく、そう結論づけた。

 だからと、放ったらかしにはしない。ときにストーカーのことも聞き、警察官が巡回をしているせいか、直接何かが起こることはなくなったとたしかめた。


「形無くん。今日、前期終わりの飲み会があるみたいなんだけど。行かないかい?」

「そうなのか? せっかく誘ってくれたのに悪いけど、予定があるんだよ」


 ある日。忘れ物を取りに大学へ行くと、石車に声をかけられた。高校からの縁ではあるが、これという会話をしたこともないのに。

 後輩から誘われたが、一人で行くのは気恥ずかしい。そう言うのを断るのは気が引けたが、予定があるのも本当だ。

 夏休みに入るのだから、環を旅行に誘おうと思っていた。


「そうなのかい。君の彼女も来るって聞いたけど、聞き違いかな。まあ、予定があるなら仕方がないよ」


 そう言って、石車は去った。

 形無に恋人は居ない。誰かがそう形容したのなら、環以外には考えられない。


 ――あいつも友達が多いからな。

 一緒に参加しようと言われれば、断る環ではなかった。行動の逐一を形無に報告する義務もない。恋人であれば、参加するくらい教えてくれとも言えただろうが。

 しかしそれも、今日を限りだ。今晩、食事をして。彼女になってくれと言う。そう決めていた。

 その日、平晟二十六年七月二十五日は金曜日だった。


「飯は食ってるだろうし――デザートでも食いに行かないか? でいいか」


 昼の返信があった後、折り返しでメッセージを送った。デザートが無理でも、迎えに行くから連絡してくれと追加もした。

 それにはすぐに反応があった。にっこり笑顔のイラストだけだったが。


 ――オッケーってことだよな。

 期待に胸を膨らませ、大宮駅近くのカフェで待った。会場を石車に聞いておけば良かったと後悔したが、連絡方法がない。

 しかしどこから呼び出しがあっても、応じるつもりだ。多少待たせるのは申しわけないが、その分は旅行の豪華さで埋め合わせよう。そんな風に、楽しい未来しか思い付かなかった。


「遅いな――」


 午後十時を過ぎても、環から連絡はなかった。オールナイトを許す父親ではない。そろそろ帰宅を考えねばならないはずだ。


「待ってるから、連絡してくれよ。焦らなくてもいいからさ、と」


 楽しんでいるなら邪魔をしたくない。だが父親に叱られるようなことはさせたくない。そうなれば、旅行なども許しが出なくなってしまう。


 ――いきなり旅行はハードルが高いのか? 親御さんには、友達とだって言ってもらって。

 悪巧みをしていると、メッセージに既読のマークが付いた。


 ――やっと終わったのか。長い一次会だったな。

 時刻は午後十一時近い。

 と、遠くで鳴るサイレンの音が聞こえた。隣の客が「また鳴ってる。警察の運動会でもあるの?」などと笑う。

 形無は気付かなかったが、もう何台分もサイレンが響いたようだ。


「返事がないな」


 午前零時を回って、カフェを追い出された。メッセージを一度、通話も一度試みたが、反応がなかった。


 ――振られたとか?

 邪な計略に勘付かれて、距離を置かれたか。いやそんなはずはないと、自身をからかう。

 とは言え行き場所もなく、車を動かして時間を潰した。コンビニで立ち読みをしたり、川土手で缶コーヒーを飲んだり。

 そうやって、朝を迎えた。


「お、電話か。とうとう誰かに飲まされたかな」


 酒を飲まされて、友人とどこかに泊まった。平穏を求めた想定に依ると、環はカプセルホテルで二日酔いになっているはずだった。

 しかし表示されたのは、見知らぬ加入電話の番号だ。


「もしもし?」

『お早く失礼します。こちら形無さまのお電話でございますか?』

「え、ええ。そうですが」


 相手は女性だった。最初は環が悪戯で声を変えているのかと思ったが、どうも違う。


『私、宝田と申します。環の――ううっ』


 宝田と名乗り、環の名を出した女性は涙に声を詰まらせる。思うにこの人は、環の母親だろう。

 そう察すると、酷くタチの悪い妄想が頭を過る。


「あの。環の。環さんの、お母さんでしょうか」

『――左様でございます。環は、死にました』

「ぇ」


 それから何をどう話したのか、記憶が定かでない。いつの間にか自宅に戻っていて、部屋の隅でぼうっとしていた。

 環と再会したのは、それから二日後。母親に呼ばれて宝田家に向かい、客間に寝かされた彼女とだ。


「形無くん、君のことは聞いている。信頼に足る男だとね。そこで聞きたい。娘を殺した犯人に、心当たりはないか」


 当人の目の前で、彼女の父親に問われた。初めて見る宝田重三郎は、自らの奥歯を噛み砕かんばかり、怒りに震えていた。

 それでいて大粒の涙を零し、崩れ落ちそうな精神をぎりぎりで踏み留まっているように見える。


「殺されたんですか――」

「娘の服を引き千切って、首を締めている。遺体は薄納基地の、外来搬入口近くに捨てた。死んだのは、一昨日の午後十時ころだ」


 親ではなく、刑事として話しているのだろう。犯人側の視点で宝田は語る。


「付き纏いをする者など、臆病者だと決めつけていた。娘の話を、もっと聞いてやれば良かった。しかし後悔しても、取り返しはつかん。出来るのは、犯人を捕まえるだけだ」


 ストーカーならば、被害者の身近に居るはず。それであれば、学生である形無を頼りたい。宝田の意図は、そういうものだった。


「すみません。俺は何も知らなくて……」

「ああ、これからでもいい。何か分かったら教えてくれ」


 昨日、環が何をしていたのか。どこに誰と居たのか。何も知らないことに寒気がした。

 大切な人を自分の知らない場所に置いて、何も起こるはずがないと。いや、その可能性を考えもしなかった。


「これ、環じゃないんだな」


 宝田家を出て、スマホの画面を見返した。二十五日の午後十一時ころ、サイレンの鳴る中で付いた既読のマーク。

 環のスマホは、財布などと共に見つかっていないらしい。

 形無は足元に、スマホを叩き付ける。夏の日差しに焼けたアスファルトへ、鋭利な破片が雨と散った。

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