第21話:遠い道のりの最初
ダイニングテーブルへ道路地図を拡げる。紙の上でも結構な範囲に、長いため息が出た。
「どこ?」
「ここからこう行って、ぐるーっと」
埼玉県のはかな市から箱根へ。甲府を経由して、長野県佐久市から秩父を回るルート。指でなぞってみると、ますます気が重くなる。ただ走るだけで、八時間以上もかかろう。
行かねばならぬ理由は、船場からかかった一昨日の電話だ。
『しゃぶしゃぶ屋の店員。心当たりがあるな? 私の商売の邪魔をしてくれるな』
出し抜けのセリフで、やらかしたと悟る。知った店に盗っ人が居て、見過ごせなかった。それだけなのに。
言いわけをしようとしたが、船場は聞く耳持たなかった。ただし
『事情は理解してる。しかし今後気を付けろという意味で、お使いくらいはしてもらおうか』
と。罰をこなせば不問にすると言った。
「これが罰? ドライブじゃん」
地図で示しても、青二は大変さを理解してくれない。職業ドライバーなら日常だろうが、特に運転が好きなわけでない形無には苦行と言えた。
「そう言ってられるのも、今のうちだ」
運転さえせず助手席に座り続けるのも、相当の苦痛だろう。このときばかりは、意地の悪い返事しか出来なかった。
家を出たのは午前七時。まず向かったのは、最寄りのレンタカーショップだ。
「何しに行くのさ。これじゃ荷物なんか載らないよ」
「安養寺ラーメンを食いにだよ」
山道を走れて、長時間乗っても疲れない車。そういう条件で予約すると、用意されていたのはデミオだった。モデルチェンジ前の、コンパクトカータイプ。
もちろんこれでも、リクライニングもしない軽トラに勝ること数千倍だ。
――しかし、話を聞いてたみたいなタイミングだったな。
密入国ブローカーの情報を求めた宝田が帰って、すぐに電話はあった。しかも外国人店員に関して、自分の商売を邪魔したと。
さすがに盗聴器でも仕掛けられているのではと、部屋中を探し回った。何も見つからなかったが。
「何ラーメン?」
「味噌らしい」
「ふーん。形無さんも食べたことはないんだね」
「思い付きで言っただけだからな」
「じゃあ本当は?」
未知のラーメンを待望しているわけでないらしい。病院の窓口同士を対面させたような、感情のない言葉を互いに投げ合う。
「知らないんだよ」
「知らないで行って、何すんの?」
「行けば分かるんだとさ。片手で持てるくらいの荷物を回収するとしか聞いてない」
指示された行き先は、人里離れた山間部ばかりだ。そんな場所にあるものと言えば、土地の安さだけを理由に建てられた工場などの大型施設。
――日本人しか居ませんように。
などと、正解のほうから寄ってきた妄想を打ち消した。
それからしばらく、青二は黙っていた。まだ両親を気にしているのかとも思うが、違う気がする。宝田と顔を合わせて以降、何だか盗み見る視線を感じるのだ。
気配を察して眼を向けると、さも「見ていませんよ」とばかり顔を背ける。それがこの車中でも行われた。
「聞きたいことがあるなら遠慮するな。何でもは答えられんが、なるべく善処する」
長い道中だ。探るような空気では、なおさらつらくなる。思いきって、聞いた。
「いや。別に」
「別に? それなら俺の美形に見惚れてたって理解するが、いいな」
「美形? 誰が? どこに?」
今日の目的を聞いたのもだが、遠慮なく言えることは普通に返してくる。つまり窺うような素振りは、遠慮せねばならぬ話題ということだ。
――古道具屋じゃない仕事、かな。
思い当たるのは一つだ。しかしこれも、どうも違う気がする。
「――形無さんは不細工だから、結婚できないの?」
「事実でも名誉毀損には問えるんだぞ」
デコピンをする素振りで脅しつつ、笑った。なるほどこの少年は、形無が独りで居ることを心配してくれたらしい。結婚どころか男女交際さえしたことのない自分に、泣けてくる思い遣りだ。
泣けそうで、笑うしかなかった。
「何だ。宝田さんとの話、結構聞いてたんだな」
「うん」
申しわけなさそうに俯いて、青二は頷く。聞き耳を立てたことに、ではないだろう。だとすれば他に、彼の罪などあろうはずもない。
「教えてやるよ。何が聞きたい?」
「環って、女の人の名前だよね」
「そうだ。宝田さんの娘で、生きてれば二十六歳になる」
重大な事実をいきなり告白。のつもりで言ったのに、青二は驚かなかった。
「やっぱり死んでるんだね」
「次からは亡くなってるって言えよ、失礼だから。で、なんでやっぱり?」
「へ太郎に言ってたよ。墓参りに行けって」
「あー、言ったな」
石車に言うのは、いくつかある挨拶のバリエーションの一つみたいなものだ。今日は暑いなとか、風呂に入れよとか言うのと変わらない。
あの男が内心ででも返答に困ると分かっていて、嫌がらせに近いのも事実だが。
「付き合ってたの?」
「いや、大学の後輩だよ。実は高校も同じだったらしいけど、聞くまで知らなかった」
「それ、形無さんを追いかけて入ったんじゃ?」
「ないない」
高校でも大学でも、部活やサークルなどに属さなかった。だから後輩の女子生徒に見初められる瞬間など、あったはずがない。
「たまたまだよ。同じ授業を受けてて、飲み会に行ったら居て」
「へえ……」
どうやら少年の聞きたいのは、形無の交際遍歴ではないようだ。そちらであれば、ゼロと即答出来たのに。
環の死は悲しい出来事だが、隠しても仕方がない。何より彼女が、話したくないと口を閉ざすのを嫌うはずだ。
「環と最初に話したのは――」
言いかけて、気付いた。何の事情も知らぬ誰かに話すのは、これが初めてだと。
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