第6話:起源になるもの

 もう一方の青二の手が触れているのは、腰高のキャビネット。間口が一間足らずもある、大きな物。格子状の扉が付き、あちこちに透かし彫りが施されている。やはり中華風の品だ。


 ――新品で七万。程度のいい中古で二、三万てとこか。

 ざっと眺めて、そう値打ちを付けた。形無が綺麗に仕上げてうまく売れば、その半ばくらいで売れる可能性がある。


「ご、ごめん。隅々まで綺麗にしようと思って、浮かせて。そしたら――」


 下に敷いたビニールシートに接する部分まで、きっちり拭こうと考えたのだろう。その為に傾けたようだが、力をかけた部分がまずかった。

 底板と床の間を隠す、幕板が割れている。深彫の見事な龍が、尻尾を失った。それはどうにかしたとしても、分厚い底板まで罅の入ったのが遠目にも見える。


 ――底板の交換だけでも一、二万。材料代で足が出るなあ。

 結論として、売り物にする価値は失われた。適当に修繕して自分で使うか、小さく切って焚きつけにするかくらいしかなかろう。ただし形無の家に家具は足りているし、薪の風呂もない。


「ふう――」


 憤りを覚えたのではなかった。故意に壊したのでなく、懸命にしようとした結果だ。それをいきなり叱りつけるほど、短気な性分をしていない。

 けれど利幅のありそうな物だったので、残念なのも事実だ。その思いが形無に、ため息を吐かせた。


「すみません」


 貝のごとく閉じこもる気配が、その声にあった。肩を窄め、右の拳を左の平で包み、俯く青二。

 しまった、と後悔しても遅い。


 ――くそ、これだから誰かと一緒は嫌なんだ。

 傷つけること、傷つけられること。そういう現象は、自分一人で居れば起こらない。


「悪い、怒ったわけじゃないんだよ」


 と。慰めるのも言葉足らずで、不愛想になる。

 初めてなのに任せたのが悪かったとか、一つくらい売れなくなっても問題ないとか。むしろ追い打ちになりかねないことしか、思い浮かばなかった。


「おとなしくしてます」


 親しげだった口調まで堅い。青二はとぼとぼと縁側に向かう。落ち込んで座る姿に、悪いことをしたと半分は思う。反対に四割ほど、子育ての経験もない男に高校生をあてがった、船場の責任を問いたい。


 ――経験じゃなく、俺の器量のせいだとか言われるんだろうけど。

 残りの一割はよく分からないまま、青二のやり残した掃除を引き継ぐ。もう一度、天板から。


「なあ青二。俺は見ての通り、ずっと一人で居る。だからお前にどう接していいか、よく分からん」


 正直に、今思っていることを話そうと思った。それでこちらの事情を汲んでくれるなら、いくらか会話になるだろう。そうでなければ、好きな場所で塞ぎこんでいてもらうしかない。

 しかしまた言葉が足りなかった。慌てて「迷惑って意味じゃないぞ」と付け足す。


「お前が壊したキャビネットは、もう売り物にならない。でもここにあるのはほとんど、ひと山いくらで買った物だ。だからこれ一つの値段は、大したもんじゃない」


 砂粒でも数えているのか、青二はじっと地面を見つめた。

 こちらは広い天板を拭きつつ、素材を見極めた。集成材に化粧板が貼られている。やはり日本に輸出する為の、廉価品だ。

 その割りに、やけに見た目が凝っているので高そうに見えた。


「聞いてみるんだが、図工の成績はどうだった? 美術や技術じゃなくて、図工な」

「……できる」


 顔は上がらなかったが、答えてくれた。


「真ん中ってことか? じゃあ出来るんだよ。慣れとか経験の問題だ」


 世辞でない。よほど酷ければ、低評価が付けられているはずだ。そうでない以上、向き不向きも時間をかければどうにかなる。


「商売でやってることだがな、そもそもそんなに大儲けしようとは思ってないんだ。住む家はある。親父の大工道具も残ってる。それなら何かやろうってだけでな」


 拭き残しのあった飾り彫りまで磨いても、貝は開く様子がない。次は正面から側面へと拭いていく。


「半分は趣味みたいなもんなんだよ。木を削ったりくっつけたりするのが、楽しくてやってる。俺も最初は失敗した。見様見真似だからな」


 だから青二が失敗するのも織り込み済みだ、と。

 それは嘘だが、心の準備がなかっただけだ。いま考えれば、やはり新人の拵えるロスはあって当然と思う。


 ――駄目か。

 形無としては精一杯、言葉を尽くしたつもりだった。それでも貝殻は開く様子がない。

 暗澹たる二週間が続くと思うと、気が重くなる。


「ずっと一人?」

「ん?」

「お父さんに、大工仕事を習わなかったの」


 ようやくだ。ほっと、安堵のため息を吐きそうになった。どうにか堪え、努めて明るく答える。


「俺が大学に入る直前、死んじまったからな。おふくろと二人とも、交通事故だ。いや気にするなよ、昔のことだし、それほど繊細でもない」


 相手はトラックだったらしいが、逃げて捕まらなかった。複雑な気持ちはあっても、考えないようにしていた。恨んだところで、生き返りはしないのだから。


「うん、ごめん」

「気にするなって。でもまあ青二の親御さんも、早く金を返せるといいな」


 大切にしたいと心から思ったとき、その相手が居なくなっている。そういう悲劇は意外と簡単に、身近に訪れると形無は知っていた。

 押し付けるつもりはないが、できれば青二も知っておいたほうがいいと思った。


「オレの父さんと母さん?」

「ああ。借金なんて、ちょっと石に躓いたくらいの――」

「知ったこっちゃないよ。いっそこのまま、野垂れ死んでくれればいい」


 急激に。堅く、硬く、少年の声は強張った。さっきまでが貝や石の固さだとすれば、今はナイフや包丁のように。


 ――やれやれ、こいつは難儀だ。

 一つ解れても、また別の絡まった結び目が現れる。これを解くのは、世話のうちに入るのか。

 再び黙ってしまったので、次の作戦を考えねばならない。やはり食い倒れに、などと考えながらキャビネットを傾けようとした。


「ん?」


 天板の端を持って押したのだが、びくともしなかった。奇妙に感じて立ち上がり、両手で慎重に力をかける。


「何だこいつ」


 今度は傾いた。が、重い。ふんだんに無垢材の使われた箪笥と同等の重量があった。


「どうしたの?」

「いや。変なんだ」

「オレが何かした?」


 形無の態度を、青二も怪訝な様子で尋ねる。しかしまだ、何とも答えられない。

 何度か揺らして、重心が下にあると分かった。錘でも入れたかというほど、極端に。


「そうじゃない。手伝ってくれ、こいつを寝かせるんだ」

「え、うん」


 戸惑いながら、青二は手を貸してくれた。駆け寄ってきて、傾けたキャビネットの背をゆっくりと地面に下ろしていく。


「どうすんの?」

「この中が気になるんだ」


 底も天板と同じ板が使われていた。底板よりも下。幕板で隠された、空間の底にだ。

 ノミを持ち、ハンマーで打ち付ける。どうせ壊れた物だ。残った幕板など、どうなってもいい。

 青二の破損させたところから、中に何かあるのは見えていた。それを傷付けぬよう、周囲を剥がしていく。


「これ、何で隠してあんの?」


 果たして。隠されていた物が、すっかりと姿を見せた。

 それは一見して、ただの材木だ。意図が分からないと青二が言うのも無理はない。

 だが、きめ細やかな肌目。爽やかな香気。年輪のはっきりしないところなどは、正体を如実に示している。


「こいつはかやだ」

「かや?」


 将棋盤や碁盤の材料としても知られる榧。出てきたのは厚さが二十五センチ、幅は六十センチ。長さは百六十センチにも及ぶ材だ。


「高級木材だよ。これだけ大きければ、何百万にもなる。青二、お前のお手柄だ」


 

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