第9話:感情の境界
「うまいねえ」
ぺちゃぺちゃと咀嚼音をさせ、へ太郎こと石車は酢漬けと酒を平らげた。終いにガラス容器を逆さにし、滴が落ちるのをいつまでも待っている。
「お前にやったんだから、そんなに急いで飲まなくてもいいのに」
「そうだねえ」
答えつつ茶色の袋がクシャッと丸められ、作業ズボンのポケットに収められた。千円札が残ったままのはずだが、どう扱おうと口出しすることでない。
「焦って独り占めしようとするから、すぐに失くなっちゃうんだよねえ。悪い性分だって、分かってるんだけどね」
出していた舌をようやく引っ込め、酒の滴に向けられていた視線をこちらを向ける。
――何だってんだ、急に。
石車の瞳は、やけに潤んでいた。
自身の境遇を儚むのは分かる。人生を交換したとして、一日とて堪えられるか怪しい。
「その子。君が産んだの?」
「産んでない――ってか、産めねえよ。ちょっと預かってるだけだ」
髭面が悲しげに笑う。
ここへ石車を訪ねたのは、何度目になるのか。数えるのももう不可能だが、こんな表情は初めて見た。
おそらくは、あちらからの質問を受けるのも。
「そうか。結婚してくれたのかと思ったよ」
「何でお前が、俺の結婚を待ってるんだよ」
「そりゃあ、幸せを見つけてほしいから」
どうして問うのか、は分かる。分からないのは、どうしていま問うのかだ。青二が子どもと思ったなどと、そんなはずはない。
――いや、そんな分別もつかなくなったのか?
奇妙な風体と行動は昔からずっと、でない。形無は知っている。少なくとも同じ高校から同じ大学へ進むまで、石車は至って普通の男だった。
むしろ成績優秀で、周囲から褒めそやされていた。
「そいつはご親切にどうも。それで、聞いたことには答えてもらえるのか?」
へっ。と鼻で笑い、冗談で済ませた。
石車が心を病み、そちら方面の病院へ入れられた経緯も知っている。
その男が。いやそうでなくとも、こんな生活が健康的であるはずがない。
しかし。石車の体調を案じたり、家や仕事を世話したりするような立場にはないのだ。
「ああ、ごめんよ。お客さんだ」
対話の終了が申し出られた。逸れた視線を辿り振り返ると、半袖シャツに作業ズボンという、形無と似たような服装をした男が二人向かってくる。
一人の手には、何やら食べ物が入っているらしい持ち帰りのパック。もう一人も、スナック菓子の入ったビニール袋を提げた。
「おいおい。お前の腹が膨れるのは結構だが、俺も客の一人だろうよ」
目くじらを立てるほどの額を支払ったわけでない。しかしだからこそ、それくらいはすぐに教えてほしい。
困惑のまま質すと、石車は「えへへ」と笑った。
「居ないよ」
儀式の前に戻ったかと思ったが、答えはあった。
「あ、ええと。居ないのか、表も裏も?」
「もちろんだよ。僕にはその区別もつかないけどね」
「そうか、助かった」
聞くことさえ聞けば、長話をするつもりはない。この時間は石車の掻き入れ時で、その邪魔をする気もない。
立ち去ろうと動かした足を「ああ、でも」という声が止めた。
「裏を気にするなら、もっときちんと聞いておくことも出来るよ?」
「うーん、まあ一応頼む。変わらんだろうけどな」
「じゃあ五日後に。またね」
その言葉を最後に、石車は先ほどまでの緩んだ笑みに戻る。
酒と現金をスイッチに入れ替わっているのは間違いないが、どちらの顔が素なのか。それは知りようもない。
「そうだ、石車。気が向いたら、環の墓参りに行けよ」
去り際、気まぐれに言った。過去に何度か同じことを言ったけれども、石車が墓へ行った様子はない。
なぜ気まぐれが起きたかと言えば、行きたがっているように見えたから。
――俺に気兼ねなんかせず、行きゃあいいんだ。
と考えるのを、どうにか言葉にするのがやっとだ。形無が連れて行く手もあるのだろうが、そんな器量はない。
「えへへ」
石車の答えは、いつもと同じ笑い声だけだった。
「――へ太郎に聞いて、保証になんの?」
並んで歩きつつ青二が問うたのは、買い物をした商店を通り過ぎてからだ。途中にいくつかの飲食店があったけれど、素通りしてしまった。
「何が食いたい?」
「別に何でも。カップメンでもいいよ」
「遠慮するなって」
「してない」
何をどこまで話したものか。考えるうち、質問に答えず話題を変えてしまった。青二の声が、早口で小さくなる。
「あ、すまん。あいつのことは、歩きながら話す内容でもないんでな。どこか入ってからと思って、話が飛んじまった」
「それはどうでもいいよ。店も好きに決めなよ」
多少ごまかしたが、正直に言って謝った。すると話す速度が戻る。
「そうか、それならこれだけ教えてくれ。腹は減ってるか?」
「まあまあ」
「まあまあか。よし、それなら覚悟しとけ」
高校生のころ、自分はどの程度を食ったろうか。思い浮かべて、それに相応しい店へと進路を変えた。
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