第4話:熱湯を注ぐ

 取り残された庭先に、沈黙が居座り続ける。耳に届く音といえば、林の向こうを走る圏央道の風切り音だけだった。

 二十歳未満の若者と一対一で話す機会など、振り返っても記憶に定かでない。まず何と言うべきか、言葉を探した。

 ――大変だな、とか労うべきか? それとも何もなかったことで、名前から聞き直す?


 独りきりの日常に割り込んだ慣れない相手でも、若い心を徒らに傷付けぬよう配慮をする気持ちはあった。

 盗み見た青二は、まだ直立のまま。力んだ表情をどう落ち着ければ良いか、悩んでいる風だ。


 ――お近づきに、飯でも食いに行くか?

 軍資金ももらえたことだし。と、封筒の端を千切って中身を見る。一万円札が五枚。やはり船場から受け取ったのと、同じ向きに入っていた。

 封筒には現金だけでなく、便せんも一枚あった。


『形無さま 息子、青二の世話をお願い致します。同封の現金で不足した時は、後日お支払い致します。 浅井浩二』


 ――丁寧なことだね、どうも。

 浅井あさい浩二こうじとは、父親の名に違いない。細面の息子をさらに繊細にしたような風貌の男だが、この手紙を書いたのは自分の意志でないはずだ。

 古物商である形無の家には、警察官の立ち寄りがいつあるか分からない。そのときに怪しまれても、世話を頼まれた証拠を作らせたのだ。

 つまり警察に探られては良くない事情が存在する。


 ――よし。奮発して中華料理食い倒れといくか。

 ときどき訪れるお気に入りのラーメン屋を思い浮かべ、声をかけようとした。だが僅か早く、青二が先に口を開く。


「あんたもヤクザなの?」

「俺が? どうしてそう思う」


 口調こそ疑問形だったが、睨みつけた眼が物語る。きっと彼の中で形無は、ヤクザが子飼いにする下っ端に配役された。


「ち、違うの?」

「どうしてそう思うか、と聞いたんだ。合ってるか違うかは、答えた後に教えてやる」


 相手は子どもだ、向きになるな。そう心の中で唱え、声や顔に怒気が篭もらぬよう努めた。

 それでも想定した答えと違ったからか、青二は怯む。


「そりゃあ、オレをどうするかって話になって、すぐにあんたの名前が出たんだ。そう思うに決まってるだろ」

「なるほどな」


 予想通りの浅い回答だった。

 もう一度、怒気が表に出ぬよう深呼吸をする。あくまでこれは、ものの道理を教える為と自身に言い聞かせる。


「ところでお前、青二ってことは兄貴が居るな? そいつはどうした。一緒じゃないのか。さては優秀な兄貴はさっさと親を見捨てて、お前だけ居残ってるって感じか」


 またも予想通り。その質問は聞き飽きたとばかり、うんざりした表情が浮かんだ。しかもこの状況からの無責任な当て推量は、鬱陶しいことだろう。

 少しの間、青二は黙った。

 顔から徐々に力みと怯みが消え、母親似の疲れた視線が気怠く見据える。


「……ほんと、同じことを言う。大人ってのは、みんな同じだね。自分の言うことを聞かせたいときだけ、都合のいいようにオレを見る」


 ため息混じりの言い方もそっくりだ。拗ねた感情は、予想よりも深い。


「オレに兄弟は居ないよ」

「知ってるさ」

「ええ?」

「ここに書いてあるからな」


 読んだばかりの手紙を拡げて見せる。もちろん家族構成などは書いていない。近寄って覗き込む青二は、「どこに?」と聞いた。


「浩二って、お前の父親だろ? 普通は漢字を継がせるなら浩だと思うが、なぜか二のほうを選んだらしい。それにお前の母親は、旦那よりも若い。兄貴が居ると計算が合わなくなる」

「なるほど――」


 ついでに言えば、兄弟のどちらにも父親の名を継がせるなど今どき珍し過ぎる。気の強そうな母親だったし、一人目は譲っても、二人目はそちらの名が付けられると思った。


「そこまで気付いてるなら、なんで兄貴が居るなんて言うのさ」

「船場が言ってたろ? 何も知らないで怪我をするのは、馬鹿馬鹿しいって。相手を知りもしないで決めつけるのは、その最たるもんだ」


 形無が何を言ったのか、青二は少し頷きながら噛み砕いていた。言い終えて、数拍。「あ――」と声が漏れた。


「仲間ってわけじゃないんだね、ごめん」

「そうさ。船場が善人とは言わないし、仕事をもらってる立場なのも否定しない。でも一緒くたにされるのは、ちょっと違う」


 分かってくれればいい。大人について評したセリフで、分かってくれると思った。

 青二はこれまでも、親や周りの大人に良い印象を持っていない。おそらく、大人の身勝手と書いて都合と読む事情に振り回されたのだ。

 子どもは大人の言うことに従うもの、と。昔ながらの定義によって。


「それはそうと、昼飯にしようと思ってたんだが。青二も食うか?」

「いいの?」

「食費はたっぷりもらってる。遠慮するな」


 外食は夜に回すことにした。同情の対象ではあっても、招かれざる客には違いない。それをこちらが気遣ってばかりでは、すぐに参ってしまう。


「どれでも好きなのを選べ」


 縁側から家に上がらせ、居間を通って廊下の倉庫へ案内した。中には箱買いしたカップラーメンが、山と積んである。

 形無自身はまだ封を切っていなかった焼きそばの箱を開け、一つ取り出す。


「遠慮するなって、カップメンじゃん」

「そうか、要らないんだな」

「いや要るけど」


 青二は幾らか迷って、結局焼きそばを取った。


「オレが作るよ」

「いいのか? 悪いな」

「作り方くらい見れば分かるし、全然だよ」


 ――カップ焼きそばの作り方を、見れば分かる?

 おかしなことは言っていない。たいていの庶民は、作り方の表記など読みもせずに作るはずだ。

 どこか引っかかったが、気のせいと思うことにした。言葉の綾のようなものだと。

 だが、そうではなかった。


「出来たよ」

「お、ありがとさん」


 およそ十分後。湯を沸かす時間もあったので、さほど手間どってはいない。見ていたが古いガスレンジの使い方も間違わなかった。


「青二、こりゃ何だ?」

「え。カップメン」

「うん。まあそうなんだが、正確にはカップ焼きそばだ」

「――ああ、書いてあるね」


 蓋を開けると、焼きそばはなみなみと湯に浸かっていた。しかも色だけ見れば、しょうゆラーメンのような透き通った黒。

 舐めてみると、湯を捨てた後に入れるはずのソースの味がした。


「作り方――」

「え、間違ってた?」

「いや。食えば分かる」


 失敗談としてたまに聞くが、どんなものか。知っておくのも良い経験だ。

 無理やりに自分を納得させ、一口。

 ――っす。


「うわ、ごめん。間違えたねこれ」

「いや、いい。食い物を粗末にするのは嫌いだ」


 湯を捨てて改めてソースをかけ直せば良いが、あいにくと焼きそばソースは冷蔵庫にない。

 ほんのりとソース風味の麺を掻き込み、湯を飲んで塩気を補う。


「どこか外国の、知らない料理と思えば食える」

「うん、ごめん」

「気にするな。次、気をつければいい」


 カップ焼きそばくらい、教えなくても誰でも作れる。と、決めつけたのは形無だ。

 ――食えないことはないんだ、取り返しのつくことで良かった。


 大したことじゃない。形無自身がそう思い込んで言うと、青二も気まずそうにしながら麺をすすり始める。時に「まずいね」と笑いながら。


「名前は?」

「ん?」

「あんたの名前。まだ聞いてない」

「ああ、そうか。形無だ」

「分かった、形無さんね」


 話し出すと、なかなか押しの強い感じがする。これも母親に似たのかと思うが、当然に口にはしない。


「形無さん、一つ間違ってるよ」

「何を?」

「オレの父さんは四十一なんだけどさ」


 予想よりも幾つか上だった。が、見た目以外に情報のない中での推測だ。それくらいは大目に見てほしいと思う。


「母さんも同い年だよ」

「マジで!?」


 心底驚いた。ちょうど口の中が空になったところだったのは、青二の配慮らしい。

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