エゾヒグマ



 じっと見つめてくる人がいた。


 ぼうっとしてて、ぼんやりとしてて、はっきりとしない、そんな輪郭の無い人だった。


 それは”俺”だった。焦点の合わない目線をあちらこちらへと移しながら目を泳がせて、見なければいけない物、見たくない物からずーっと逃げている。


 俺が俺を見ている。


 俺がここに立って、自分が自分を見ている。


 夢なのか現実なのか実感を伴わない現象がこうして目の前に存在しているのに、俺は慌てることもなく、不思議に感じることもない。


 だけど、それが心地よかった。


 昨日に置いてきたものなんて知らないし、今やらなきゃいけない事なんてわからないし、明日に備えるための物なんて何もない。


 俺がどこかへいって、ここじゃない場所に置き去りにされて、留まりのない虚ろな目がエサを貰えると思っているひな鳥のように与えられることを待ちわびている。


 たゆたう水面に流されることを意識した俺の心は流れにゆだねてどこかへと連れていかれる。


 生も死も違いなどなく、いまここにいるのだって違いはないのだから。


 ……。


 聞こえる。話しかけてくる。耳元に、耳の中に言葉を滑り込ませて来る誰かが。


――ねぇ、アキは将来大人になったらどんな仕事につきたい?


 子供のころ、カスミと話したことがよぎる。


――俺はお前の事が……。


 初めて会ったころ、街中でばったりと出くわしたアラガキとの会話が通り過ぎていく。何を言っていたのか思い出せない。


――アキ、あんたはあんたらしくしてりゃいいんだからね。母さん、あんたが元気でいてくれれば何もいらないから。


 二度と聞かない、聞けない声。さっきまで血の通った体で俺の顔を見て、温かい手を繋いでいた母さんの声。


 定まらない意識が明確になる。


 たゆたう視線が見据える。


 足の裏は確かに地を踏んでいた。


 鮮明になりかけていた意識を掴みかけたその直前、 また、誰かが俺に話しかけてきた。


――お前は母との約束を交わし、生きることを誓った。父に愛され、母に守られ、健やかに育てられたお前は何も知らない”理不尽”に命を奪われようとしている。


――選べ。何も知らずにここで死ぬか、艱難辛苦の道を選ぼうとも生きることを選ぶか。


 意識が強く、強く、強くと前を向かせていく。


 棒のようになっていた足がやっと歩き始めようとしている。


 声が誰かはわからないままだが、声の主の手がどこにあるのか本能でつかみ取ってみせた。


――……選択は成された。ならば共に行こう。オレの”園長”



 さきほどまでのことはどれくらいの事だったのか。


 十分か、はたまた十時間か。長い間を川の中で溺れていたと思っていたあの状況は、季節外れの雪原と住宅街と腕の中で氷よりも冷たくなった母の存在が数秒に満たない時間だったことを教えてくれた。


 殺意を込めた”雪”が、額すれすれに先端を差し向けている。血は出ているが肉や皮すら切れていない。


 殺す気はなかった? 気まぐれに殺すつもりはなかった? 


 正体不明の怪物がなぜ俺の命を奪い取ろうとしなかったのか。その正体が、俺の頭上越しに伸びた獣の腕によって食い止められたからに他ならなかった。


 獣の拳……熊の手の平ともいえるそれは角とすら思いかけるほどの強靭な爪によって氷柱の先端を絡めとることで食い止めている。先ほどまでに背後にいたであろう”熊”が俺の命を寸前になって救った。それが、今の現実だった。


 割れた氷柱の氷欠片がぽろぽろと零れ落ちる。ここに来るまでに大勢の命を奪い去り、猛威を振るった怪物の力がそれ以上の力によって押さえつけられている。


 冷たくなる息で胸が苦しくなるのを堪えながら振り向く。


 ”獣”じゃなかった。


 ”女の子”がいた。


 茶髪のショートヘアーにキリリと逞しい快活そうな顔。冬場でありながら半そで短パンにピンク色のタスキをかけている活発そうな少女。同い年くらいの少女たちと見比べても、整った顔立ちがこの場では神秘的に映った。


 攻撃を食い止めたと思っていた”熊手”の正体は、彼女が持っている熊手を模したであろう”こん棒”だった。


 寒空の下で布面積が低い衣服を纏っている彼女は身を縮めることもなく、堂々とした佇まいで俺の方に振り向いた。


「――よぉ、へへ。初めまして、だな。”園長”」

「ぁ、えぁ……っ」


 鼻の下をこすりながら得意げに話しかけてくるあたり、好意的な少女であることに違いはなかった。見て見たら頭部にある獣の耳がぴくぴくと動くさまは、どうやら彼女の感情と連動しているようだ。


 ”彼女”は、一言で言えば勇ましさと言う物を体現した顔をしていた。キリリと吊り上がる瞳は意志の強さを眼光で叩きつけ、すらっとした鼻筋から下の桜色の唇は聴く者の心を震わせる声が流れる。


 世間一般的で、ごくありふれた、なんともつまらない言い回しだが――”美少女”という言葉が当てはまる。そんな少女だ。


 それに対して、俺はいまだにしりもちをついて何も言えないでいた。情けない男としての姿をさらしながらも、すぐに立てないのは目の前の光景を嚥下できないゆえに。


 言葉がうまくでない。先ほどの熊はどうしたのか、なんで怪力の少女が”雪”を始末できたのか、俺はどうして助かったのか。


 キラキラと虹色に輝く胞子を纏わせた熊手が、何もない空間に力の限り振りかぶられた。


 途端、張り詰めていた風船が破裂した爆発音が起こり、正体不明の殺意の意識が俺から外れていくことを感じた。


「あ、ぁ、え、お、おま、だ、だれっ……」

「ちっ、”ディザスター”どもがしっちゃかめっちゃかに暴れてやがる。おい、園長……えーと、オレの言ってることわかるよな?」

「ま、おま……だれっ……」

「ああ、オレ? オレは”エゾヒグマ”。お前と共に戦い、お前の傍にありつづける”友”だ。よろしくな、”園長”」


 大きく振り回しながら肩にどっしりと乗せる熊手。彼女の持っている武器がどれほどのモノかは知らないが、先ほどの”雪”……彼女の言う、”ディザスター”と呼んだ怪物を葬り去れるのだから力は確かなものなのだろう。


 ――空気が震えた。


 俺のようなただの人間ですら全身が泡立つような明確な、先ほど以上の殺意。


 エゾヒグマは瞬時ににやけていた顔を意識と共に切り替え、道の向こう側を見据えるようにジッと睨みつけている。


「……くるぞっ!」


 その途端、俺を庇うようにしてエゾヒグマが前に立った。


 発射されたかのような氷柱が横殴りの雨のように彼女の体を貫き、頑丈な肉壁となって俺を守り通した。


「お、おいっ……!」

「ちぃっ! すまん、場所を変える!」

「あ、あぁっ!?」


 手に持つ大柄の熊手をナイフのごとく軽々と振り回し、目の前に揺らめく実態を殴りつけていく。


 身をひるがえすエゾヒグマが横手に飛びあがり、俺たち家族の住んでいた一軒家の上に立ちながら不敵に口端を釣り上げた。


 直後、苛立ちを魅せるかのように氷柱がエゾヒグマに向かって発射されて――いや、よく見れば氷柱が出現する場所に、”ヒト型らしき揺らぎ”が見える。透明人間と思えるそれが、空中に氷柱を出現させ、彼女を攻撃しているのだ。


「な、なんだよあれ……」


 俺の住んでいる家はそんなに大きくない。わずか二階建ての一軒家で住宅街にあるそのうちのひとつでしかない。


 そんなありふれた家の上で、わずか二階ほど上の場所で熊手を振るう剛腕と氷柱によって刺し貫こうとする揺らめく影との死闘が繰り広げられている。


 大振りでありながらも相手の攻撃を予測し、鋭利な切っ先を最小限の動きでかわしつつ、揺らめく雪の正体へと一撃を加えていく。


 敵の方もさることながら、技を繰り出した後の隙を突こうとして一撃を見舞おうとするもエゾヒグマはそれすら狙っていたんだとばかりに熊手を持っていない方の素手による手刀で断ち切ってみせた。


 しかし、そんな彼女の方に疲れが見え始めている。


「え、エゾヒグマ……っ」

「……っ! なに、してんだ……っ! はやく、”指示”を……!」

「し、指示……?」

「叫べ、念じろ! お前が”おまもりの所有者”なら、俺の力を引き出せっ……くっ!」


 言葉を求めてくる少女の叫び。命からがら、なんとか俺の方に意識を向けて発せられたその言葉を俺は理解できない。


 指示を出して何になると言うのか。何も知らぬ一般人に作戦をくれと言われても言葉を投げかける事しかできない。


 俺が迷い、その間にも苛立ちと焦燥感にかられるエゾヒグマ。


 そして、ついに、氷柱の一本が彼女の腕を貫いた。


「ぐ、ぁ゛あ゛っ……!」

「っ……!」


 血にまみれる彼女の腕。鮮やかな噴水が屋根から降り注ぎ、俺の顔にかかる。


 叫ぶ、念じる。


 何をすればいいのか、何を言えばいいのか分からない。


 戦略性なんてあるはずもなく、戦うための知能も備わってない、状況を読み解く分析能力なんてあるわけがない。かろうじて膝をつかないで済んだが、わき目で俺に何かを期待されてもやりようがない。


 混乱で後ろに下がり、俺の足に何かが当たった。


「……母さん」


 母さん。俺の最後の家族。


 まだ生きていける年齢だったのに、大人になって生活が安定したら楽な暮らしを送らせてあげようと思っていたのに訳の分からない怪物に殺されて、もう二度と俺に声をかけてくれない母さん。


 胸の内が重くなる、胃から湧き上がる吐き気が止まらない。どうにもこうにも収まらぬ衝動が、やり場のない発露を求めて渦巻く。


 その言葉は、理知的なモノではなく、心から。


「……潰せ! そんなやつ、”ぶっ潰しちまえ”!」

 

 不条理に対する怒りが、未来を奪われた未練が、形のないはずと思っていた揺らめく怪物につきつける。


 エゾヒグマの口元がゆがむ。トドメとばかりに光る氷柱の先端は彼女の片手によって掴まれ、素手によってへし折られた。


 この時、なおも握りしめていた熊手が鈍色に輝きはじめる。熊手の先にある爪が煌々と輝きながら”雪”を抉りぬいた。


※  


「へへっ、ありがとうよ。お前のおかげで助かったぜ。さすが”園長”だな!」

「あ、あぁ……」


 けらけらと笑いながらエゾヒグマは屈託のない笑みを浮かべている。ハツラツとしたその態度には嫌味や裏をまったく感じさせず、見る者には安心感を与える。実際、未知なる敵を倒してくれたのだから心強いのではあるが。


 だが、それと同じくらいに未知なる存在として映ってしまう。


 こいつは先ほどまで屋根の上で戦っていた。あの場所で氷柱に切られ、刺し貫かれ、挙句の果てにはそんな傷だらけの状態で屋根から飛び降りて着地して見せたのだ。


 ”人外”そんな言葉が俺の頭の中に浮かぶ。命を奪う怪物から逃れられても、それと肩を並べられるまた別の怪物に話しかけられている。 


「っ、母さん……」


 視界の隅に映ったものは惨憺たる有様だった。氷柱によって穴ぼこだらけとなった俺の家は見るも無残な形となり果て、道路沿いにはこと切れた母さんの亡骸が横たわっている。


 ……母さんに近づく。せめて、どこか安心できる場所で寝かせてあげたい。家にも戻らなければ。氷柱で穴ぼこだらけでも、あそこは俺の帰る家なんだ。


 だけど、エゾヒグマは許してはくれなかった。戻ろうとした俺の首根っこを掴み、そのままずるずると引っ張っていく。


「な、なにしてっ……!」

「悪いけど何かを言わせるつもりはねぇぞ。ありゃあもう動かない血袋だ。同情したところで動きやしねぇ」

「っ……」

「あそこ、お前の家だよな。もう安心は出来ねぇ、もっと休める場所を探さねーと死んじまう」


 力強く引っ張るエゾヒグマの腕に引かれていくうちに、俺は自分の足で歩くことにした。


 寒い。まだ雪が降っている。極寒の季節へと変わり果てた街の景色が、日常的に彩られたこの場所をすべて奪い去っていった。


 家の前の道端に母の亡骸が横たわっている供養されることもなく、手厚く葬られることもない。晒された屍がただただ哀れにしか見えず、俺は何も出来ないでいた。


 かつて夢見ていた普通の生活をして大人になる事。それが、あまりにもあまりにも遠くの場所へと置き去りにされるのを……後ろを振り向けば見える家を見ながら嫌でも噛み締めていくしかなかった。



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