別れ
純白の”白”が目の前の一人を”赤”に染め上げた。
ヒト一人分の肉体が背面にかけて胸元から鋭い氷柱状の鋭利な物体によって貫かれ、おびただしい血だまりがあたりを濡らす。
両の足でしっかりと立っていたはずの老人の口からはパクパクと人魚のように上下し、形にならぬ呼吸を吐き出しては白い息と血を吐いた。
命あるヒト型が、命亡き物体となって横たわる。
「――ぁっ……?」
「ひっ……!? いやぁぁぁぁぁぁぁーーーー!!」
カスミが絶叫する。周りも叫び始める。
今さっきまでこのおじいさんは俺たちに心配して話しかけてくれた。他のみんなが自分たちの事しか考えられない状況で、ただ無関係な俺たちを見捨てることもできずに手を差し伸べたのだ。
なのに、そのおじいさんは”雪”によって殺された。
何の意味もなく、何の罪もないはずの人物が非情に、無情に、唐突に奪い去られた。
あっけない命の終わりにくぎ付けになる。だけど、それは俺がおじいさんに対して感傷的になったからではなかった。
なんで、なんで”雪”が……?
俺は見たのだ。あの時、空中に浮かんでいた雪の粒がちらちらと降り注ぐ中、途端に空中でぴたりと静止した。まるで見えないピアノ線によって浮かべられたかのように思えたそれが、一瞬、ほんの一瞬だけ……
”ヒトの腕”のような形になっておじいさんを刺し貫いた。
「……に、にげ、るぞっ……!」
「はぇ……?」
「逃げるぞっ! ぼさっとしていたら危ない! 早く!」
茫然と泣き果てているカスミの腕を掴んですぐにでも俺たちはモールの方へと向かった。このままここに留まればさっきのように”雪”によって殺される!
彼女の腕を引っ張りながら俺はモールの入り口付近にまで走りこむ。建物内であるならば多少の安全は確保できるかもしれない。心なしか滑りそうになり、なんども足を取られそうになっても地面を踏み抜きながら前を進んでいく。
周りのほうでも同じように足を取られて転ぶ人だらけだ。わずかに揺れている地面、雪によって滑ることで上手く前に進めていないのかもしれない。
「ね、ねぇ、なんでっ、なん、なんなのっ!? なにが、おきてっ!」
「バカっ! 口を開くな、舌を噛むぞ!」
「で、でも、周りの人、みんなっ……!」
カスミが言いたいことはもっともだ。さっきのおじいさんのように俺たちが誰かに手を差し伸べられたように俺たちもできれば腕を引っ張る成り、肩を貸すなりしてあげればいい。
あの”雪”による強襲がないという前提なら。なにより例の緊急地震速報が本当であればこれから大きな揺れがやってくるはずなのだ。そうであればどこか安全である場所まで行かなければならない。他の人にまで考えは回らない。
途中で倒れかけ、混乱が頭を満たそうとも無意識の領域にまで訴えかけてくる生存本能が前に進めと教えてくれる。
もつれかけた足取りはようやくとなってジャパリモールの入り口にまで到達させ、わずかほどの安堵が心に芽生える。
扉の自動ドアが開かれ――
「ア゛ア゛あ゛ぁ゛ぁ゛っっーーーー!?」
振り上げた泥を詰めた袋が地面に叩きつけらたような生々しい衝突音。それが先ほどまで”ヒトだった”モノだと気づいた途端、顔から血の気が引いた。
”雪”が、いる。外にいたはずの”雪”がモールの入り口付近で吹きすさび、風によってながれる「ひゅぅぅぅぅぅ……」という音共に凶刃たる氷で店内の中を踊り狂う。
風に載せられた”雪”は形がないがゆえに変幻自在。流されるがままでありながらも上と下に関わらず、その身を滑らせる勢いに任せて逃げ惑う人々の命を刈り取っていく。
男も、女も、大人も、子供も、若者も、老人も、命あるものなしの分別に関わらず、されるがままなすがまま意のままに氷刃が人々を血の骸へと変貌させていった。
――だ、だれ、がぁぁぁ……っ
――だずげでぇぇぇぇ゛゛!! ぁ……あ゛ぁぁ゛ぁ゛ぁ゛ーーーーーーっっ!!!???
――ぱぱぁ゛ぁ゛!! どごぉ、どごいっだのぉぉ!!
――み、みえないぃ゛ぃぃ……なにもみえないよぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛……っ
――やめ、て……この、こに……て、ださ、な……い、で……
「……ひっ、ひっ……!!」
「か、カスミ……」
僅かばかりに安全とさえ思えていた景色はすでに地獄の様相を表していた。
鮮血と悲痛の絶叫が店内にこだまして、モールから出ることを許さぬ氷刃が一人、また一人とその刃を血に染めていく。
「……にげ、るぞ!」
「えっ……」
「逃げるぞ! も、もうどこだっていい! ここじゃないどこかへ……!!」
すでに茫然しかけているカスミは何も反発してこない。
途中で見かけていた足がもつれ気味の人々にすら俺たちは目を向けなかった。自分が助かることを考えなければ、きっと俺たちは生き残れない。すぐ後ろで死へといざなう怪物を前にして、俺たちはなにを言う事もなく逃げ去った。
モールへ戻ろうと言う言葉をカスミが口にすることはなかった。
※
どれだけ走りぬいただろうか。地獄と化したジャパリモールから遠ざかればそれでよしと思っていた俺たちは力の限り、吐き捨てる呼吸によって肺が痛くなろうとも動ける限り市内を走りぬいた。
市内の方はまだ静かな方だった。先ほどの地震速報によって道路は渋滞となり、大きな手荷物を持って人々がひしめき合っている。
例のニュースが来た以上、ここに存在している人並も市外や緊急時への避難場所として逃げようとしているのが大半だろう。ここからだと遠くない場所に小学校や中学校などの体育館がある。
「ね、ねぇ……あの人たち……」
「っ……」
息が切れかかる中、市内の裏通りにひっそりと隠れる。
体力の限界が来て、走れなくなったのもある。けれど、それ以上に先ほどの”雪”によって舞った血しぶきの光景が頭から離れない。
「ここならあんなこと起きないよね。アタシたち、大丈夫だよね……」
「……あ、ああ。ここまで、くれば……っ」
自分でも頼りない言葉を吐いたと思う。だが窮した答えとして、出せるのはこれが限界だ。
あの異常な光景、言葉では表しがたい自然現象とも説明できない”何か”。お偉い学者様が知恵と知識をこね繰り合わせて答えを出してくれるかもしれないがそれを聞けるのは遠い未来だ。ほしいのは今だ。
「……アタシたち、どこへ行けばいいんだろう」
「他のみんなと一緒に体育館へ行くか?」
「で、でも! さっきのあれ、もしかしたら他の所でも起きてるかも……」
「ここにいたって安全なわけがないだろ!?」
「だからってぼさっとしてたら死んじゃうじゃない!」
激しくなりかけた口論が中途半端に途切れる。言い合ったところで実りのある答えなんてない不毛な行為であることにお互いに気付いてしまう。
しかし、カスミの言うとおりだ。あのまま人の集まる避難所に行ったとしてもさっきの”雪”のように殺されるかもしれない。かといってここにいたところで巻き込まれないとも限らない。
ここに、外にいたところで……
「……! 母さん……!!」
「えっ……あ、おばさん! 確か家に戻るって!」
まだ一時間も経っていないのに、自分の母親の顔が思い浮かぶ。買い物は終わり、家に戻ると言っていたから帰路についているのは想像できる。
しかし、家に戻らず地震速報で他の人たちと一緒に避難所に向かった可能性がある。携帯を確認し、母さんにメールを送り……
想像は当たった。母さんは今、家にいる。家に着いた頃に自身の速報が出た時に下手に家に出ないように籠っていたみたいだ。対処としては正しいのだろうが、先ほどの怪物じみたやつがいるなら安心はできなかった。
「……クソっ、逃げ遅れたのか。ごめん、俺は家に戻る」
「あ、待って! 私も!」
言われるがままにカスミが俺についていこうとしている。一人のままでいさせるよりはマシだ。
住み慣れた市内では家への帰り道は頭の中に叩き込んである。この裏通りを通っていけば、自宅への近道になる。
走りこもうとした瞬間、足音が俺たちの方に向けられる。表が騒々しくあったがために、その足音だけは俺たちにはしっかりと聞こえてきた。
現れたのは一人の男だった。俺より身長がわずかに高く、整った顔は男らしい逞しさを備えている。揺るがぬ黒い瞳がカスミに向けられたとたん、彼女はその男の胸元に顔をうずめた。
「……カスミ。ここにいたのか」
「アラガキくん!」
アラガキ・タケシ、彼こそがカスミの付き合っている男子だ。
これまでの不安を吐き出すようにして泣き出したカスミは瞳を濡らして、アラガキの服で拭う。
アラガキの方もただ事ならぬカスミの様子に対して何を言わずともぎゅっと抱きしめた。泣いている赤子を慰めるように、カスミの頭をぽんと撫でる。
アラガキの双眸が俺に向けられた。
「……ヒラナリ、なにがあった?」
「説明するには……その、言葉で表せないことがあったって言うか……」
「雪が突然降って、ヒトを殺した……とかか?」
「……えっ!?」
目を見開いた。アラガキの胸元に泣いて甘えていたカスミもまさか自分の彼氏から例の異常現象を聞かされるとは思わず、慄く表情でアラガキを見つめ返している。
「お前の所でもあの……その、怪物みたいなのがいたのか!?」
「……コンビニにいたら突然だ。雪が降って来たかと思ったらいきなり通行途中の親子連れが切り裂かれた。それだけじゃない。ここに来る途中で”火”が燃え盛って人を包み込み、雨雲がないのに”落雷”が落ちて、一部の住宅街に”大雨”が局地的に振り出した。お前たちは……雪だけのようだな」
アラガキの言葉に俺たちの常識が崩れかける。
あのモール付近にいたは”雪”その物が生き物のごとく暴れ来るってヒトの命を奪った。モールから逃げ、離れればあの危機的状況を脱せると思っていたのに、どこへ逃げても生き物のような異常現象が起きている。それも、”雪”だけにとどまらず、多くの力を持って。
これならどこへ行っても同じではないか。俺たちには、もう逃げる場所なんてどこにもないのではないか……?
「俺はこれからカスミと一緒に避難所へ行く。いいな、カスミ」
「うん、うん……! わかった、私、アラガキ君と逃げる……にげる、から……っ」
「ヒラナリ、お前も――っ!! くっ!!」
キッと鋭さを増した眼光で、アラガキは俺を蹴り飛ばした。
その瞬間、俺がさっきまで立っていた場所につんざく轟音が叩きつけられる。激しい炸裂音と爆発にも等しい衝撃で地面が焼け焦げる。
蹴とばされた俺が建物の壁に寄りかかり、自分に降り注ごうとしたモノを目で確認できた……できて、しまった。
それは”雷”だった。抽象的なイメージである黄色いギザギザが棒状のように天に高くそびえ立ち、逞しい肢体の足のごとく鎮座している。
雷という自然現象が、先ほどの俺を踏みつぶそうとした。それが、先ほどの正体だった。
「っ……! アラガキ、カスミ! 先に逃げろ! あとで避難所へ落ち合う!」
アラガキに蹴り飛ばされたのは行幸だった。雷らしき足を挟む形で俺と二人は分断された。
「ヒラナリ!」
「アキっ、アキぃ!!」
俺は振り返らなかった。呼びかける二人にすら気にかけることなく。お互いに気にかけていたらすぐに殺されてしまう。それが言いわけ染みていても、この場から離れるしかなかった。
絶叫が響き渡る。モールと同じような黒い悲鳴が表通りから聞こえる。
さっきまで変わらなかったはずのこのあたりの空気が急に刺すような冷たさを帯び始め、背後からは踏み鳴らすかのように雷が連続的に落ち始める。渋滞していた車が爆ぜ、吹き飛び、中にいたであろう人々の命を失う絶叫と共に響き渡った。
まだましとさえ思えた表通りは、モールの時と変わらぬ地獄へと変わってしまった。
※
俺にとって身内と呼べるものは母さんくらいしかいない。
この地方都市では親戚が一人もおらず、祖父や祖母も他県にいるからだ。だから、いざという時のために頼れる大人というのは子供のころから俺を育ててくれた血を分けた母さんだけだ。
母さんは昔から俺のことを見てくれていた。自分で言うのもなんだがのんびり屋でマイペースだった俺は他人と合わせるという事が苦手で、いじめにはならずともクラスメイトと馴染めないことが多かった。それは小学校、中学校を通して……高校に上がってからもだ。
顔を合わせて親友と言えるものはソコソコいても頻繁に一緒に居たり行動するものは少ない。だからこそ、カスミのようにつきっきりで見てくれる幼馴染の存在は母さんにとっても安心できる存在だったのだろう。
けれど、そんなカスミも彼氏が出来た。ほんとうは順風満帆な女子高校生として幸せになるべきだ。それを幼馴染として異性の男子の面倒を見てくれなんていうのはカスミにとっても負担になってしまう。
だから、そう、だから。
俺はいつか自立しなくてはいけない。
漠然と、漫然としたイメージ。形としてはあいまいだった将来的な不安が、この状況になって形になった。緊急時でなければ形にならないあたり、焦燥感というのは成長において大事な要素なのかもしれない。
自立して、一人で暮らせるようになって、どこかの大きな会社に就職して、キレイな嫁さんを貰って……そうすれば母さんだって楽になる、安心してくれる。
「――アキっ!」
ここに来るまで、俺はいろんなものを見捨ててきた。炎に焼かれる通行人、氷柱に刺し貫かれる夫婦、落雷によって倒壊したビルに挟まれた人間たちの叫び……
裏路地を抜け、住宅街を駆け巡り、見慣れた家の前に来ると今まさに避難しようとしていた母さんが立っていた。
「母さん……!」
「このバカ! 母さんの事なんて気にしないで避難所に行けばよかったのに……!」
「そんなことは良いだろ! さ、はや……く……っ」
ここまでくれば後は避難所へ逃げるだけだ。母さんの手を掴み、元来た道を引き返そうとして――
剛毛の巨体がのっそりと俺たちの前に現れた。
”それ”は、野生に存在している生き物の象徴的存在。山の中に暮らし、獰猛さを重ね備える四つ足の”獣”。
熊が、のそのそと俺たちの前に出た。
(な、なんで、何で熊が……)
今この場で、俺の頭の中はぐるぐると思考が巡る。
なんで街中に熊がいるんだ、なんで俺たちの前にいるんだ、動物園はここらへんにはないはずだ、いやそもそも熊なんて発見されたここ数年では発見されていなかったはずじゃないか……
背中を、見せてはいけない。
聞きかじりの知識だが、熊には背中を見せず後ろに下がるのが有効だと聞いた。足をじりじりと引きずるようにして、決して目を逸らさないように俺たちは家の方へと戻ろうとした。
「あ、アキ――っ……」
「か、かあさ……ぁ、ぇ……っ?」
シュコンっ
子気味の良い音が、鋭く、何かをくりぬいた音が鳴った。
唐突に表れた熊に対して、ジッと意識を向けていたがために周りの環境の変化に気付けなかった。先ほどまでに温かいほどの空気が、いつの間にか刺すような冷たさへと変化した。
倒れる。母さんが、母さんだった物へと変わって崩れ落ちる。
目が開き、口は閉じず、ハイライトを失った黒目は空虚な空間しか映さず、芯が抜けて横たわる。
「か、ぁ、さん……」
「……」
「ねぇ、かあ、さん……ねぇ、なんで……」
動かない、声が出ない。ゆすっても返事をしてくれるわけもなく、手の先に感じられる物からは急速に熱を失っていく。
触れた”者”が”物”へと変わっていく。
手が、死に触れている。
「ぁ……」
ひらりひらりと振り落ちる”雪”がジッと俺に目を向けている気がした。獲物を仕留めたのであれば、残った俺が狙われないわけがない。
空中に舞う白の結晶が綿のようにあいまいとなった形が、だんだんと鋭利になりはじめていく。鈍い透明感のある切っ先が目先に向かって尖り始めた。
(ああ、死ぬんだ。俺――)
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