9 夢の続き

 赤。

 どす黒い、蠢く赤。


 むせ返るほどの鉄臭いニオイをまとうそれが、呪われた色だと僕は知っていた。


 最初は、世界にぽつりと落ちた一滴の染みだったはず。

 あることがきっかけで、たまたま僕だけが気付けた。だから、僕だけがなんとかできると思っていた。

 でも違ったんだ。

 僕は勝手に思い上がっていた。ただの、十二歳の子供でしかないくせに。


 それがわかったときにはもう、なにもかも手遅れで。


『オージ!』


 ダメだ。やめて!

 取り巻く赤黒い渦の中、僕は叫ぶ。叫んだつもりだ。

 だけど声にならなかった。

 あのときの僕はもう、なにもできなかったんだ。


『オージ……!』


 感じたのは赤い渦を掻き分けて、僕を掴んだヒメ姉の手。

 違う、違う違う違う!

 来ちゃダメだ! 僕はヒメ姉を、守りたくて!

 世界がこれで終わるとしても、大好きな姉だけは、せめて無事でいて欲しかったのに!


 とん。


 やさしくも力強く、僕は渦の中心から押し出されていた。

 最後に、微笑むヒメ姉を見ながら。


『生きてオージ。私のぶんまで――』


 僕の目論見は外れた。結果はまったく逆になった。

 今だからわかる。僕はしょせん子供だった。考えが足りなかったんだ。あのとき、ああすればヒメ姉がどうするかなんて、予測できたはずなのに!

 生き残ったのは、僕だ。

 消えたのはヒメ姉。赤い渦に飲まれて、あっという間に見えなくなった。

 僕の身代わりになったんだ。


 ああ。

 ああああああ。

 ああああああああああああああああああああ!



               §



「――っ!!」


 はっと目を覚ますと、もうブラインドカーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいた。

 夢?

 そうだった。僕はぶかぶかのシャツ姿で、張りのあるベッドに寝ていたことに気付く。

 ホテル最上階のメインベッドルーム。もうあの新宿の、あの夜じゃない。


 鉄臭いニオイも、もうしない。


 ふーーー。僕は横になったまま、ゆっくりと息を吐いた。

 忘れたかった記憶。でもけっして、忘れられない過去だ。

 目元に触れれば涙で濡れていたのがわかる。

 でも、それもすぐに乾いていった。すべてが幻かのように。

 そうだ。気が付いたときには、なにもなくなっていたんだ。あの赤い渦の痕跡も、中に取り込まれたはずのヒメ姉も。

 本当は僕が犠牲になるはずだったのに。

 ただ、今のように朝日だけが世界を淡く染め上げていて。


「……ヒメ、姉っ」


「う、ん……」


 えっ? ふいに体に触れたのは、やわらかなぬくもりだ。

 同時にふわりと香ったのは、よく知るヒメ姉のニオイ。

 そうだった。身を起こせばそこに、同じベッドで眠った、エルフの白姉の姿があった。

 寝返りを打ったはずみで僕にくっついてきたんだ。

 着ていたバスローブが乱れて大きくはだけている。まったくもう。僕はこっそり苦笑した。



【ヒメ姉メモ】

 はっきり言って、ヒメ姉は寝相が悪い!

 朝起きたらパジャマのボタンが全部外れてた、なんて普通だ。あれどうやってたんだろう?

 一緒に寝ると大抵は、眠っている間にぎゅうっと抱きついてくるしさ。



 白姉も、やっぱりヒメ姉だ。寝相を見ればそっくりだもん。

 胸元からは大きな二つのおっぱいが、今にもこぼれ落ちそうだ。真っ白な長い足も、付け根が見えてしまいそうで。


「困るなあ、ほんと」


 下着ははいてない。湯あたりして、そのままベッドまで運ばれたからだ。僕はそっと白姉のバスローブの裾を整えた。

 にしても、よく寝た。ベッドから降りて、明るい窓際でのびをする。

 朝日が昇ってどれくらい経つだろうか?


「こんなに寝たの、久しぶりかも……」


 ヤツらが世界を蹂躙してから、ゆっくり眠れた試しはなかった。


 ずっと、あのニオイがまとわりついていたから。


 だが、もう大丈夫なはず。あの日からニオイはしない。

 それに僕があのときを生き延びたということが、なによりの証だ。もしまだヤツらが残っていたなら、僕だけ見逃されるはずはないから。


「そこだけは……僕の賭けが当たった、ってことかな……」


 窓に向かってぼそりと呟く。ブラインドを開ければ、そこから廃墟の街並みが見えた。

 だけどどこか、これまでとは違って見える。

 うん。もう違うんだ。


『生きてオージ。私のぶんまで――』


 ヤツらのいないこの世界で、これからの僕は。


「オージ……? あら」


「起きた? 白姉。おはよう」


「えっ……もう、朝ですか!?」


 目を覚ました白姉が、なぜか慌てて跳ね起きる。


「そ、そんな! わたくしの、オージとの、せっかくの夜が~~~!」


「あはは。だからもう朝だってば。みんなもそろそろ起きてるかな? 着替えて、朝ご飯の準備をするね」


 昨日、メカ姉が手に入れた着替えが、ウォークインクローゼットにあるはず。とりあえず僕はベッドルームから離れた。

 すると、あれ?


「みんな? なんだ、もう起きてたんだね」


「ええ! そりゃ、朝だからねッ?」


 仕切りのないメインベッドルームから繋がった、ホールのような広いリビング。

 そこで装束の上だけをはおって、剣姉がなぜかワインの空き瓶で素振りしていた。ツインテールに縛った髪が激しく揺れる。剣士の、日課の鍛錬ってとこかな。

 その隣にはきちんと青いメイド服を着た、メカ姉が。


「おはようございます、オージ。よい朝ですね」


「うん。おはよう、メカ姉! へえ、今日は髪、下ろしたままなんだね」


「――訂正ミス。これから整えます」


 頭のカチューシャを一度外して、メカ姉が銀色の髪をせっせと編み始めた。


「ふふん、そなたたちは粗忽すぎだぞ。慌ててこっそり様子を……いや、こほん! どんなときでも、身だしなみはちゃんとしておかんと。のう、オージ?」


 ホールに置かれたグランドピアノ。その上であぐらを掻いたケモ姉は、いつもの煌びやかな着物姿だった。

 でも。


「ケモ姉は……寝癖、すごいね」


「なんだとお!? わ、妾としたことが~~~!」


 金色の髪が、頭の耳の間でぴょこんと撥ねていた。大慌てで押さえてケモ姉が、窓からバルコニーへと出て行く。プールの水に映る姿で、寝癖の具合を確認していた。

 別にいいのに。家族なんだから、だらしない格好を見せても。


「まあいっか」


 僕はさっさとウォークインクローゼットで着替える。古着の半ズボンに、替えのパーカー。

 それからキッチンへと移動して、パントリーをあさった。今朝はなにを食べようか。

 パンの缶詰なんてのがいくつもあった。非常食のヤツ。あとは公園で作った、とっておきの燻製ベーコン! それに、ずっと前にレストランで見つけたブロックのチーズがある。常温保存でも腐ってないから、まだ食べられる。


「炙ってパンにのせれば、絶対においしいよね」


 さっそくフライパンをコンロにかけた。

 でも、やはり食糧問題は常に気になる。食い扶持が五人になったし。大事に使ってたベーコンもこれで最後だ。


「ええッ? 結局――ヤってないの? まったく? なんで!」


「ううっ……だって、だって~~~。わたくしも疲れていましたから、そのまま朝まで……」


結論リザルト。それでも一回は一回です。公平を期すために次回のヒメリエルの順番は、HI/MEたち三人の後ということで」


「くふふ、やはり妾は強運の持ち主だのう! さて今夜の伽こそ、妾の番に!」


 姉たち四人はわいわいとリビングで話し込んでいた。トギ? なんの話だろう。

 じゅううううう。

 厚く切ったベーコンの焼ける音で、朝からなにで盛り上がっているのかは、そもそも僕にはよく聞こえなかった。



               §



 今朝の夢は、つらい過去。

 それでもはっきりと思い出せたことがある。今が、ヒメ姉からもらった未来だということ。


 なら僕はこの廃墟の世界で、どんな時間を過ごそうか?


 ホテル最上階から見える今日の空は、雲ひとつない快晴だ。


「あのさ。これだけいい天気だから、みんなで一緒に出かけない?」


 朝食を終えて昨日と同じく、役割分担を決めようとなったとき、僕は最初に切り出した。


「オージと……お出かけですか!? それはもう!」


「いーねッ!」


肯定アイ。まったくもって異論ありません」


「愚問であろう! 行くに決まっておるぞ!」


 詳細を語る前に、姉たち全員が盛り上がった。

 こういうときの連携は本当にすごい。出かける前にまずは今日の洗濯だ。それをなんと四人で一気に取りかかる。


「ええと、ええ?」


 本当に、僕が手伝う隙もなかった。


「水よ! 踊りなさい――【乱舞の渦水シェイク・アクア】!」


 白姉が広いバルコニーに飛び出すと、プールの水面を渦巻かせた。


「なるほど! つまり、これが大きな洗濯桶ってわけね! そーれッ!」


 そこに剣姉が躊躇なく、運んできた汚れ物を投げ込む。

 するとなぜか洗剤も入れてないのに、プールで泳ぐ衣類たちがぶくぶくと泡に揉まれた。たぶん魔法の力なんだろうけど、すごい! 桶というよりも、完全に巨大な洗濯機だ。

 プールの側まで近づいて、つい見入った僕だったけど。


「……あら、これも忘れていましたね!」


 目の前でいきなり白姉が、着ていたバスローブを脱いだ。

 青空の下で、真っ白なエルフの裸が露わになって、わああ!

 困る。本当に困るよ! 白姉自身はちっとも気にせず、バスローブを渦巻くプールに放り込んで、水を操るのに集中する。年頃の僕は慌ててリビングに逃げ込んだ。

 うう。お風呂のときもそうだったけど、もうちょっとこう、ヒメ姉たちには恥じらいを持って欲しい。

 そりゃあさ、この世界にいる異性は弟の僕だけだから、気にしないのかもだけど!


「どうだ! これは使えるであろうて!」


 そんな僕と入れ替わるように、いつしか姿を消していたケモ姉がバルコニーに着地を決めた。

 その肩には、細いロープの束が。黄色と黒の警戒色に染められたそれは、工事用のヤツ? どこで調達したのやら。

 たぶん、バルコニーの遥か下。倒壊する新宿高層ビル街のどこかだ。

 とんっ。長い尻尾と煌びやかな装束をなびかせて、金色のケモ姉が軽やかにバルコニーを駆け抜ける。一緒に細いロープが走った。

 バルコニーを囲む、背の高い転落防止用の柵。その間に見事、長いロープが結ばれて、ぴんと張られる。


「ここからは、メイドロイドたるHI/MEの仕事ですね」


 そして洗われた衣類が次々と、プールから飛び出して、風に巻かれてくるくると舞った。そこに手を伸ばし、メカ姉がひとつ掴み取る。


「適度な脱水こそが、衣類を傷めずきれいに干すコツなのです」


 ぱん! 勢いよく一振りで、くしゃくしゃだった服がきれいに広がった。わ、お見事!

 それを剣姉が受け取ると、渡されたロープに引っかける。


「はい、どんどんいくよー!」


 手際よくメカ姉と剣姉が連携して、次々に洗濯物を干していく。

 最後にもう一度、余ったロープの端を握ってケモ姉が走った。干された衣類の上下を飛び跳ね、二本目のロープがしっかりと絡みつくように。


「ふふん! これで、風で飛ばされることはないであろう」


 僕のパーカーや、さっきのバスローブに、姉たちの色とりどりな下着までが風にそよぐ。


「お出かけできますね、オージ!」


 プールの上で舞っていた風を収めて、白姉が満面の笑みだ。


「あら、オージは?」


「こっちにいるよ!」


 僕はリビングのソファの陰から返事をした。

 悪いけど直視できない。だって相変わらず、あのエルフのヒメ姉ときたら!


「……とにかくまずは服を着てよ、白姉!」



               §


「姉である、わたくしの裸に恥ずかしさを覚える年頃、ですか……! うふふ、オージもやはり男の子ですね♪」


 裸の白姉が入ったウォークインクローゼットから、なんだか弾んだ声が届いてくる。

 なにはともあれ、僕たちは身支度を始めた。


「いっちばん乗り~!」


 脱衣所で甲冑を着込んできた剣姉が、らせん階段の上から飛び降りてくる。

 絨毯に着地を決めて、持っていた剣を腰に帯びれば完了だ。


「さあ、オージの露払いはアタシに任せてねッ!」


「HI/MEは今回、軽装形態モードでいきましょう」


 吹き抜けのリビングで、ぱちんとメイド服のスカートを外すのはメカ姉だ。

 いきなりストッキングをつる、ガーターベルトが丸見えになり、えええ!?

 だけど長いスカートはきれいに折りたたまれて、ミニスカートになって再装着された。


「――換装完了コンプリート


 動きやすさ優先の格好ということかな。そういうこともできるんだ、メカ姉の服って。


「ほれオージ! とっとと参ろうぞ~!」


 誰よりも先に、玄関から飛び出していたのはケモ姉だ。

 そこに造られている四角い魔法の【ゲート】から向こうは、もうホテルの一階だ。

 さっきまでは閉じられていたが、玄関脇に突き立てられた魔法の杖に触れれば、誰でも開閉可能みたい。


「ちょっと待って! ええと……」


 その前に、僕にも少し準備がある。

 キッチンで用意していたあるものを、小さな密封容器に入れた。パーカーの空きポケットに無理矢理ねじ込む。

 あとは現地調達だ。なんとかなるとは思うけど。


「オージ、わたくしも着替え終わりましたよ」


 ひょっこりと、白ローブをまとった白姉が現れた。

 きちんと服を着たことをアピールするように、僕の前でくるりと回ってみせる。ローブの裾がふわ、と舞った。


「これで大丈夫ですね、ふふ」


「……もう、いきなり脱いだりするのダメだからね。白姉」


「あら。一緒に湯浴みもしていますのに、オージったら♪」


「お風呂は、その、しょうがないの! もー」


「はいはい」


 ころころと笑う白姉とともに、僕は【ゲート】を最後にくぐる。

 そのついでに、白姉が杖を抜いて持ってきた。


「【ゲート】は閉じておきますね。誰が来るわけでもないでしょうが」


「うん。戸締まりは大事だよね」


 四人の姉と僕の後ろで、四角い魔法の穴が消えた。

 本当に、何度目にしても魔法は不思議だ。さっきまで確かにそこは最上階と繋がっていたのに、今あるのは一階の、薄暗いエレベーターホールの壁だけ。

 そうだ。この白姉の力があれば、きっと!





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る