4 エルフ聖女の白姉「ヒメリエル」

『ヒメガミ……もう! 甘噛みにしては痛かったですよ!』


 僕を抱きしめた腕の、付け根に空いた光の穴から「白姉」の声が届く。

 確かに。僕の代わりに噛まれた白い肌は、歯形で赤くなっていた。んべ、とケモ姉が舌を出す。


「せっかくよいところであったのに、邪魔をしおって! この魔女め!」


『んなっ! 魔女ではありません。わたくしは気高き聖女です!』


 白姉。

 ヒメリエルという名の、耳の長い「エルフ」のヒメ姉だ。着ている衣装が真っ白で、髪もきれいな白髪だったから、白姉と呼ぶことにした。

 だけど実は「魔女姉」と悩んだことは秘密。だってその魔法の力は、こうして片腕だけ空間を飛び越えてくるほど、すごかったから。


『まったく油断も隙もありませんね……オージは、わたくしたちみんなのオージなのですよ? 独り占めしないよう協定を結んだのを忘れたのですか』


 ん、んん?


「白姉? 僕、そんな話聞いてないけど」


『あら、あらあら。うふふ』


 穴の向こうで笑ってごまかされた。


『いいのですよ、オージは気にしなくて。これはわたくしたち四人の姉が、一人しかいないオージを巡って争わぬよう急遽、決めたことですから』


「ヤだヤだヤだ! オージは妾のオージなのだぞ~~~~! 味見くらいしたいのだ~~~!」


 またアスファルトの上に座り込んで、ケモ姉がじたばた暴れ出す。


『中には我慢の効かない者もいますが……そんなことよりも、ですね』


 すいっ。

 白姉の指が軽く輪を描いた。手首についた腕輪が煌めく。するとケモ姉の頭上に、いきなり光の輪っかが現れた。


「な、なんだ――」


 そのまま降りてきた輪っかの中に飲み込まれ、ケモ姉が消失する。


「ケモ姉!?」


『大丈夫です。ヒメガミにはまだ仕事が残っていますから、そちらの方に飛ばしただけですよ。わたくしの【空間転移魔法陣】で』


「おーのーれー! ヒーメーリーエールー!」


 ケモ姉の文句が、どこか離れた場所から届いてきて、廃墟の高層ビル街に反響した。

 そして小さな地響きが、こっちに向かってくるような。もしかしてケモ姉の足音?


『懲りないですね。えいっ』


 すいっ。

 再び白姉の指が輪を描いた。


「ぬおうっ!? また――」


 ケモ姉の叫びが途切れる。


『ふふ。何度やっても引き戻しますよ、ヒメガミ。日が暮れる前にきちんと仕事をこなしてくださいな』


 さすがに諦めたのか、返ってきたのは遠吠えのような唸りだった。

 本当にすごい。あのケモ姉を御すなんて! 白姉は圧倒的な魔法の使い手だった。

 だけど。


「し、白姉……ちょっと、くすぐったいよ?」


『はっ! いけません、わたくしとしたことがつい!』


 本当に無意識だったのか。いつしか僕の体をまさぐっていた腕が、慌てて離れた。

 中身はやっぱり、みんなと同じヒメ姉だ。


『わたくしは聖女。高潔なるエルフの中でも、選ばれし高貴な、特別な乙女なのです。……ええ、そうですとも。だから安易に、欲望に負けてはいけません!』


「白姉?」


『大丈夫です。なんでもありません、ええ』


 こほん、と腕の付け根の穴から咳払いが聞こえた。


『とりあえず、こちらはまだ少しかかります。ヒメガミの破壊力は頼りになりますが、邪魔な建物をうまく潰すには手間取りますから。オージは安全なところで……あら?』


 するりと穴の中に消えていこうとした腕が、途中で止まる。


『そういえばなぜ、ここにオージが? 姫光とともに食べ物を探しに出ていたのでは』


「うん、それは思ったより早く片付いたから、こっちの様子を見に来たんだ。……だってまさかケモ姉が、ビルを倒してるだなんて思わなくて」


『えっ?』


「心配だったんだよ。ケモ姉や白姉が、倒壊に巻き込まれたんじゃないかなってさ」


『――天使ですか!? あーもう!』


 白姉の手が拳を握った。


『愛が……眩しい……! こうなったら、信仰の対象をオージにするしかないのでは? ああっ』


「白姉? ええと」


『はあ、はあ……大丈夫です。ちょっと、弟が、尊すぎただけで』


「あはは。もう、白姉ったら」



【ヒメ姉メモ】

 割とヒメ姉はオーバーに表現する。興奮すると身振り手振りも加わって、ちょっと面白い。

 もしかしたら子供の僕にもわかりやすいように感情表現してるのかな?



「じゃあ僕、剣姉たちのところへ戻ってるね」


『あっ、オージ! でもせっかく来たのですし!』


 待って、と白姉の手が制する。次いでここから見える、そびえる黒いビルを指した。


『わたくしの方は、ほぼほぼ片付いています。よかったら少し覗きに来ませんか?』


「え。うん、いいけど」


『よかった! では、固定させた出入り口を開けてありますから。せっかくですからオージは、一階の正面から入って来てくださいね』


 そう告げて白姉の腕が消えると、光の穴も消失した。

 そうだ。白姉本人は、こことは別の場所にいて。


「……あのビルの中にいるのかな」


 一人残された僕は、誘われるままに黒いビルへと向かった。



               §



 考えてみればこのあたりには、足を踏み入れたことがない。


『都庁の周りなんて、どのみちオフィス街だもの。あってもコンビニくらいだしね』


 ヒメ姉がそう判断したから。あちこち倒壊していたし、今まで立ち入る必要がなかったんだ。

 確かに、道路にはビルから落ちたガラスの破片が散乱していて、あまり歩き回れなかった。

 でも黒いビルに近づけば、あれ? 広々とした道路と歩道は意外ときれいだ。

 その理由は。


「窓が割れてないビル? すごい、そのまま残ってたんだ……あっ」


 僕は思わず息を呑む。ビルについていた看板には「HOTEL」の文字が。

 それもきっとなかなかの立派なホテル。ロータリー、だったかな? 車を停められる専用のスペースがあり、その向こうに正面入り口があった。

 だけど二重になった自動ドアは開きっぱなしだ。もうこのあたりには電気が届いてないみたい。


「おじゃま、します」


 僕は一応断りを入れてから中に入る。照明はついてなかったが、吹き抜けの広いロビーは外からの光で十分明るい。中央には上階に繋がる、止まったままの大きなエスカレーターがあった。

 しかし人の気配はない。多少、荒らされた跡が残るだけ。

 白姉がいるのは上の方の階だろうか。僕は吹き抜けのエスカレーターを見上げる。


『こちらですよ、オージ』


 別の方向からふいに、白姉の声がした。エレベーターのある方? 僕はそっちへ向かう。

 でも電気が来ていないなら、使えないはずじゃあ。


「あ!」


『これだけの大きさがあれば、くぐり抜けてこられるでしょう?』


 何基ものエレベーターがあるスペースの奥に、大きな光の穴ができていた。いつもの輪っか状ではなくて、四角い。

 その向こうは壁のはずだが、わずかにぼやけた景色の中で、純白のローブを纏うセイソな白姉の姿があった。

 傍らの床には金属製の杖が突き立てられ、不思議な光を放っている。


『【空間転移魔法陣】を固定した、低い魔力消費で維持できる【ゲート】です。ほら、オージ』


「うん」


 僕は白姉の魔法の穴を通るのは初めてだ。どきどきしながらまず、四角い穴に手を突っ込んでみる。

 ぼやける空間に腕が入っても違和感はなかった。大丈夫、いけそうだ。


「! うわ……」


 思い切って中に飛び込めば、一瞬で風景が変わっていた。

 肌に触れる空気の温度も、たぶん違う!


「ようこそ、オージ。わたくしたちの新しい住処へ」


 白姉が待っていたそこは、すごく広い一室だ。壁一面がガラス張りで、天井も高い。立派なグランドピアノが置かれていて、その上には煌びやかなシャンデリアが。

 ちょっとした吹き抜けのホール? 違う、ソファも壁掛けテレビもあって、振り向けば白い大理石のキッチンがついていた。アイランド式とかいう、壁から離れて独立したタイプだ。

 リビングダイニングキッチンが仕切りなく、ひとまとめになった広い部屋。奥には大きなベッドまで丸見えだった。


「ここって……」


「建物の最上階に位置する、一番大きな居住空間のようですよ」


「最上階!? 一瞬で、一階から?」


 たぶんここはホテルの特別室だ。あまりに豪華で、敷き詰められた絨毯もふかふか。靴のまま歩いても大丈夫かな、と思わず心配になるほどだ。

 だけど外国人向けでもあるのだろう。靴を脱ぐ場所がないから、気にしなくてもいいみたい。

 それより僕は窓の外に目を奪われる。


「すごい! こんなの、見たことないよ!」


 換気のためか、大きく開かれた窓の向こう。そこにはテニスコートみたいな広さのバルコニーがついていた。

 しかも吊られたハンモックや、15メートルほどのプールまである。


「え……待って、あれって!」


 僕はつい外に飛び出して、プールの側に駆け寄った。張られていたのはどう見ても、濁りのないきれいな水だ。


「やっぱり。雨水じゃないよね、これ?」


「はい、汚れていましたからね。新しい水と入れ替えておいたのです」


 ついてきた白姉が簡単に言う。


「入れ替えって、そんなこと……!」


「魔法で転送しただけですよ。地面のずっと下には、こちらの世界でも水が流れている気配がありましたから」


 ほら、と白姉が長い白髪をかき上げた。こぼれ出るのは装飾品をつけた長い耳だ。


「水の精霊の声に耳を澄ませれば、すぐにわかりましたよ」


「……精霊……」


「エルフの耳は特別なのです。あとは簡単でした。地下の水脈に転移魔法陣を潜らせて、こちらまで繋いだのです」


「もしかして地下水なら、これ……そのまま飲めるの?」


「もちろんです。浄化の術式も一応、魔法陣に組み込んでおきましたから」


「やった! じゃあこれで、飲み水も確保できたんだ!」


「ぺっとぼとる、でしたっけ? あのような形で保存したものを使わなくとも事足りますよ」


 ふんわりと白姉が微笑む。


「ここでなら五人でも暮らしていけるでしょう」


「うん! 十分だよ!」


「神殿よりは手狭ですけどね」


「……ここより広かったの? 白姉の住んでたところって」


「それはもう。聖女ですから」


 えへん、と白姉は大きな胸を張った。やわらかそうな谷間が揺れる。


「でも見晴らしはさすがに負けます。この世界の建物も立派ですよ」


「もう全部、廃墟だけどね……」


 バルコニーをぐるりと囲む、転落防止用の高い柵。その向こうに広がった、変わり果てた街並みをつい一望する。

 本当にもう、僕たち以外には誰もいないのだろう。高速道路の陸橋にも多くの車両が放置され、線路の上を走る電車は一本もなかった。


「そういえば……何があったのか、まだ昨日の今日で、ちゃんと話してもらってませんでしたね。オージ」


 一緒に眺める白姉が、改めて訊ねてくる。


「この街でたくさん人が死んだのは精霊からも聞きました。でも妙です。少し歩いても、亡骸がまるでありません。ここに暮らしていた人の数は、かなり多かったはずですよね?」


「!!」


「なのに、それらの遺体はどこへ消えたのでしょう? 精霊たちはただ、【赤きモノ】としか伝えられないようですが……」


「……それ、は」


 赤。

 すべてを塗りつぶす、闇を這う赤。

 ヤツらは世界を蹂躙し、そして最後には、僕の目の前で。


 僕が、ヤツらを止めるはずだったのに!


「はあっ! はあっ、はあっ!!」


「――オージ!? 大丈夫ですか!」


「ぼ、僕……僕っ」


「ごめんなさい! 思い出したくないことだったのですね。わたくしが軽率でした!」


 ぎゅっと白姉が抱きしめてくれた。

 ああ、やわらかい。大きな胸に顔を沈めて、ようやく僕は落ち着いた。

 やっぱり、ヒメ姉のいいニオイがする。


「無理に話さなくてもいいですよ、オージ」


「うん……。ありがとう、白姉」


 ごめんね、いつかきっと話すから。四人の姉たちが来た少し前に、いったいなにが起きたのか。

 でもまだ無理だ。

 僕はしばらく白姉のぬくもりに抱かれる。


「ふー、ふー! ああっ、オージと、こんなに密着して! いけません、こんなときに……わたくしったら!」


 白姉の鼻息が、だんだん荒くなっていたけど。

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