第四章 復讐者の身体能力

第25話 この場には、まともな人間が一人もいない

藤堂冷夏が依頼者用の椅子を蹴飛ばし、その足で机に乗り上げて、ナイフを蜜蘭へと突き出してきた――その時だった。


(――あ?)

孝幸の身体は勝手に動いた。

あたかも、孝幸が自然と工房へと来てしまう……助手などしたくもないのにも関わらず勝手に動いてしまう、両の脚のように動いてしまって。


「……な……」

孝幸の手は、冷夏が突き出したナイフを、その持ち手ごと握りしめるようにして止めていた。

「……ンでだ?」

最初はただただ、驚きだけだった。

孝幸は自分の右手……手の平を貫通するナイフの刃先を見つめる。

それが現実とは思えなかった。

作り物の映像のように思った……のだが。


「――ッ!」

一瞬遅れて、急激に襲ってきた激痛に現実を知る。

椅子から腰を浮かした自分は、伸ばした右手で、冷夏と蜜蘭の間に割って入っていた。そして、やはり、自分の手の平は冷夏のナイフに貫かれているのだった。

「……ってぇ」

漏れ出るうめき声をかみ砕くように歯を食いしばる。

苦痛に耐えつつ、しかし、何をどうすればいいのか、孝幸には判断できなかった……が。


「……離して」

うめくように、冷夏が言った。

よく見れば、彼女も何故か、苦痛に耐えるかのように顔を歪めている。

それで、孝幸も気づいた。

自分の手が冷夏の手をナイフごと力強く握り締めている。潰そうとしているかのようでさえあった。実際、彼女の手は赤黒く鬱血し始めている。

だからといって。

(……離せるわけねぇーだろ)

舌打ち混じりに、孝幸は冷夏を睨む。

冷夏にもそうされた。

睨み合う。

孝幸は冷夏が次に何をしてくるのか、探っている――と。


「――助手。手を離すんだ。彼女はもう、ここで何かしでかそうという意志はないよ。キミという護衛が居るからだろうね」


襲われかけた蜜蘭が、妙に淡々と言った。

孝幸は、それを信じたわけではなかった。

が、身体が勝手に動いてしまう。

孝幸が握りしめていた手を離すと、彼女はナイフの柄を手放した。

二、三歩後ずさりした冷夏から目を離さず、孝幸は貫通したままのナイフを引き抜く。

痛みを堪え、とりあえず、止血をしようかと思った……が。


「助手、手を出せ」

孝幸は言われた通りにそうしてしまう――と。

「動かないでくれよ」

そう言った蜜蘭を視界の隅で、孝幸は見つめる。蜜蘭は机に乗り出すようにして、孝幸の手を取った。傷口をじっと見ていたかと思えば、着物の懐から取り出した紙束。一瞬、札束に見えた――から一枚引き抜き、孝幸の傷口に張り付けるように巻いた。

「――」

次いで、蜜蘭が小声で何事か言った。


それだけで、たった、それだけなのに。

孝幸は傷の痛みから、解放された。

「……はぁ?」

冷夏から目を離さないために、己の手を目線の高さまで持ち上げる。

その拍子で蜜蘭が巻き付けていた紙……何語かも分からない文字が描かれている……│呪符じゅふがはらりと落ちた。

露わになった、孝幸の手の何処にも傷なんて、なかった。


ナイフに貫通された傷口が、完全に消え失せている。


「……ああァ?」

刺されたことが事実であったことは孝幸の記憶以上に、引き抜いたナイフの血や、冷夏の見開いた目で確認できる。

驚きと困惑に、声にならない声を上げていると。

「おや? まさかキミ、気づいてなかったのかい? 察しはついていると思っていたがね」

蜜蘭が冷ややかに、こともなげに言った。


「助手、キミはそもそも普通の人間じゃないんだよ」


「……待て、何、言ってる?」

「うん、まぁ、キミへの話は後にしよう。助手の仕事をしてくれ」

言われると、椅子へと腰掛けてしまう。

そして、言ってしまう。

「藤堂冷夏さん……依頼内容を話して下さい」

冷夏は自身が刺したはずの孝幸の手が元通りになっていること、またごく平然と質問したことに動揺しているのだろう、小さく言った。

「あ――わ、わたしは……その、人形師に復讐を……」

すべきだと、孝幸も思った。

だが、口は動かなかった。

(そういや……春也の頼み事を聞いちまったのも)


(……俺は、何なんだ?)

思って……すぐに、孝幸は答えに行きつく。

けれどあえて、考えないようにした。

何も、考えないようにした……と。


「藤堂冷夏、キミは一体何をしに来たんだね?」


襲われた直後だというのに淡々と、蜜蘭は尋ねる。その雰囲気に呑まれたのか、自分を取り戻したのか、冷夏ははっきりと言った。

「わたしはあんな身体にされた、弟の復讐がしたい」

一旦、口にすると止められないようだった。

「……わたしはっ! 弟をあんなふうにしてまで、目覚めたくなかったっ!」

冷夏は叫び、息を荒げ、目元に涙を浮かべていた。その涙は怒りのせいなのか、悲しみのせいなのか、判然としない。

「あんたなら弟を……元の身体に治せるの?」

静かに言った冷夏の声音で、孝幸は直感した。

(コイツ……さっきのナイフで蜜蘭を殺す気はなかったんじゃ……?)

孝幸はそう思うことで、気づきたくないことから、目を逸らしていた。


「一度、人形にした人間は元には戻せない」


蜜蘭が淡々と言った。

「……」

冷夏の沈黙は、孝幸にも共感できることだった。

「なら、わたしは貴女へ復讐しないと……正気じゃいられない」

冷夏の声は小さく震え、次第に大きくなっていった。

「……弟を犠牲にして生きている、なんて……息を吸うことさえ気持ち悪いッ! 弟のあんな姿を見ながら、生きていくなんて耐えられないっ!」

声の限り叫び、冷夏は息苦しそうだった。

「……、」

孝幸は妹の記憶に苛まれた。

あんな妹の姿……見たくはなかった。

気がつけば、孝幸自身の息も乱れていた。

「うん、分かった」

蜜蘭だけが、平静そのもので言った。


「藤堂冷夏。キミはもう死んでいたんだね」


不可思議なことを、いつものように言った。


~~~~~~~~~


冷夏が工房を後にして、すぐだった。

「助手」

蜜蘭が言った。

「キミのことだが……」

言いかけた蜜蘭を遮るように、孝幸は叫んだ。

「話は後だッ!」

慌てて立ち上がり、走り出す。

何も聞きたくなかった。

決定的な言葉を聞いてしまえば、もう、何もかもが終わるように孝幸は思っていた。

逃げるように、木扉を押し開けたところで。


「……後悔しないね?」


背中に受けたのは、蜜蘭の初めて聞く、こちらを心配しているような声音。


だからこそ、無視できた。


木扉を殴りつけるようにして開け、走り出す。階段を駆け上がりながら、初めてここに来たことを思い返し、その記憶さえも意識から外す。何処へ向かうべきか、決めなかった。

ただ、ひとまず、一人になりたかった。

――しかし、それはできなかった。


「助手さん」

階段を駆け上がった先の路地、電信柱にもたれかかる藤堂冷夏に呼び止められたのだ。

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