第16話 プロボクサー、最後の試合は親友と

宮永和樹は、つぶやいた。

「今までの俺の……全部、終わるんだな」

息を整えながら、目蓋を下ろす。思い浮かべるのは、己の身体を縛る鎖。心の枷。それを引き千切る。


【一度解き放ったが最後、もう二度と人間には戻れないよ】


人形師のそんな声音を思い出すも、一瞬も迷わなかった。


(俺は怪我によって奪われた、試合を取り戻す。城島と最高の戦いをする)


心の内で、己の身体をとらえる縛鎖ばくさが粉々になる。

身体の内から耳慣れない、きりきり、きりきりという異音が響く。共に覚える開放感。そして、懐かしさ。

かつての自分自身の身体だと実感できた。

怪我した膝によって奪われた足捌きはきっと、取り戻した。


「――、」

目蓋を上げる。

飛び込んでくる光景は通い慣れたジム、そのリングの白さ。

数え切れないほど練習をした舞台で。


同じく、数え切れないほど拳を合わせた城島誉が立っている。

彼の目は真剣そのもので、何より、試合用のグローブとパンツ、シューズを着ていてくれる。打ち合わせたわけではなく、和樹も同様だった。


(本当の、本気の勝負がしたいって思ってくれてるんだな、お前も)


自然と口元が綻ぶと、城島の口もやや凶暴に持ち上がり応えてくれた。


和樹はリングの外に軽く視線をやる。

リングサイドには二つ並べたパイプ椅子の上に置かれた大きめのタイマー、それにゴングがあり、傍には工房の助手の男が立っていてくれる。

レフリーと頼んだものの、実際、彼をリングに上げてジャッジをするのは彼には不可能だと考えた結果だった。

そして彼は和樹と目が合うと、教えた通りにタイマーのリモコンを操作し、ゴングを鳴らしてくれた。


心にまで響く、聞き慣れたゴングの音。

これを聞くのは、最後。

(ボクシング……若かった頃の、俺の古びた夢を終わらせよう)

和樹は無言のまま、ゆっくりと突き出すように拳を持ち上げて。

「――」

同じく持ち上げられていた城島の拳と合わせる。

グローブを伝う、慣れ親しんだ拳の感触。

(良いな――やっぱり)

頭の片隅でそう思う前には、足は既に動いている。飛び退き、城島から一定の距離を取る。重心は後ろ足。


対して、城島は前傾姿勢。猛牛のように、突っ込んでくる。


繰り出される城島の左右のフックはさながら角の如く鋭く、重い。


――のだろうが、和樹はまともに貰いはしない。足は既に動いている。城島の突撃をいなす。左ジャブで城島のリズムを狂わせ、回り込む。


(……ああ、やっぱ良いな。足が動く、自然と鋭く)


和樹の左拳が動く。城島の右の目蓋へと左ジャブを集中。

牽制――並びに目蓋を腫れさせる、城島の視界を奪うため。

しかしながら、城島の突貫は止まらない。

(良い――良いぞ、やっぱり)

彼のフックに合わせるように、右の肩だけを少し動かす。


カウンターのフェイク。


城島はガードを上げる――のを狙って、左のボディフックを叩き込む。


その反動を足と連動させ、飛び退く。

距離を取る。

シューズのキュッという擦過音が響く、リズミカルに。


対して、ボディなどなかったかのように城島はドンッという靴音で一気に直進してくる。

飛んでくるのは、軽い左ジャブの連打に混ぜた重い左ストレート。


城島の拳の軌道から外に逃げつつ、回り込む。左肩同士をくっつけるように、接近。

「――シッ!」

短く息を吐き、城島が突き出していた左腕の下から、左のアッパーを突き上げてやる。

(入っ――)

思うものの、城島は顔を横に逸らすだけでかわしていた。

 

背筋に寒気。

(避け……)

思考は遅かった。もう彼の右のボディアッパーに鳩尾を抉られている。

「――ッ!」

ただ考えるよりも前に、即応している己の身体。ダメージコントロール。腹筋を締め、かすかに横へと飛んでいる。

右膝への負荷。靱帯切断時の、膝がズレたような感覚は皆無だった。

再び、ジャブを散弾の如く散らし、牽制してやる。

同時、キュキュッとシューズを鳴らし、城島から距離を取る。


(ははッ……お前とやってると背筋がビリビリってする)


和樹の口元が釣り上がると。

「――ははっ」

こちらに飛び込む隙を狙った鋭い目のまま、城島もかすかに声に出して笑っていた。

多分、全てが伝わった。

和樹はそう思った。


今の、一分も満たない時間の中で、拳を通じて彼に今の自分が昔通りに万全だと伝わったはずだ。

和樹が青春を注ぎ込んで培ってきた体力、ボクシングの技術、練り上げた闘志の強さ――だけじゃなく、リングで今、味わっている緊張も興奮がもたらす多幸感。

ボクサーとしての幸福。

その幸福をこれから、リングに置いていくという悔しさと寂しさ。


(お前なら分かってくれるよな)

拳を交えながら、強く想うと。

「――」

城島はかすかに顎を引いた。

(やっぱりお前だ――お前だけが俺の最高で最強の敵だよ、城島……)

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