第13話 プロボクサーの挫折と過去と親友と

人形工房で依頼を終えた宮永和樹みやながかずきはふと気づけば、通っていたボクシングジムが入っているビルの前で立っていた。


(あぁ……動画の説明は本当だったか、あの工房への道も場所も思い出せない)


かすかに笑って和樹はボストンバックを背負うように持ち手の甲を、肩に乗せる。

(ここに来るまでの記憶は……ぼんやりしてるな。それは単に、俺が考え事してたせいかもしれないが)

 

思いながら、ボクシングジムの入ったビルの玄関を潜る。

数え切れないほど歩いた、ジムへの通路。

和樹の脳裏に、思い出が甦る。

 

ボクシングを始めた中学生の頃は、とにかく強くなりたかった。

母子家庭だったせいで小学生の頃に、同級生に過剰に気遣われた。そのことが息苦しかったからかもしれない。母が家事や看護師の仕事で疲れ果てて、一人泣いているのを見てしまったからかもしれない。

 

理由ははっきりとは分からないが、とにかく強くなければならないと確信していた。その確信は高校に入っても揺るがなかった。プロボクサーのライセンスを取得しても、だ。


より強く、もっと強く――それしか考えられなかった。

 

多分、全部、勝ち取ろうと思っていたのだろう。

金も賞賛も……幸せな人生を、勝ち取れると思っていたのだろう。

「――、」

気づかずに、立ち止まってしまっていた左足――左の膝を睨む。習慣的に階段を昇りかけていた左足をなるべく動かさないようにしながら、エルベーターの方へ。

誰もいないエルベーターの個室は何故だか、落ち着いた。

でも、そんな心持ちもすぐに崩れた。見えたのは、窓に映る自分の顔。覇気がなく、目尻にシワがある。もしかしたら実年齢よりも老けて見えるかもしれない。

 

全てを勝ち取れると思っていた――思えていた若かった自分はもう、居ないのだ。

何度目かの自覚を、和樹は、せざるを得なかった。


「負けたんだな……俺は」


何に負けたのか、明確には分からなかった。そう、左膝は別に対戦相手におわされた怪我ではない。中学生時代から無理のある足運びをし続けたことが原因だった。

(俺は――負けたんだ)

 

息苦しさにため息をつくと、エルベーターがジムの階に着いた。

習慣的にロッカーへ向かいかける足を、事務所に向ける。

横目に見えるのは見慣れたジムの設備。筋トレ器具、サンドバック、シャドーを確認するための大鏡……それにリング。

どれも自分が使っていたし、その記憶が身体にも心にも染みついている。

(俺は……もう)

練習しているボクサー仲間……先輩や後輩の幾人かが、それとなく目礼してくれたり、軽く頭を下げたりしてくる。

だが、和樹は曖昧に、かすかに頭を下げることしか応えられなかった。

胸の内のわだかまりを置き去るよう足早に、事務所へ足を向ける。ドアを開け放つ。手狭なスペースにパソコンと机、その奥には。


「おう、来たか」

「一週間ぶり――だね」

約束通りに待っていてくれた会長とトレーナーが座っていた。二人の肩越しにちらりと伺える歴代チャンピオンのポスターからは目を逸らした。

「ええ、すいませんご無沙汰してまして」

気にするな、と会長とトレーナーが口々に言ってくれる。

優しさなのだろう……多分。でも、ちっとも……慰められることはなかった。

だからこそ、和樹の方から本題から切り出すことにした。

「自分は……もう引退します」

会長達は案の定、気遣うような視線を向けるものの、多分、分かっていたのだろう。

「そうか……仕方ないな」

会長は深くうなずいた。

「ボクササイズのインストラクターの仕事なら紹介できるよ……考えてみないか?」

トレーナーが言ってくれた。

「……、」

二人の気遣いに少し、和樹は息苦しくなった。でも会長とトレーナーには本当に世話になったし、感謝もしていた。だから、息苦しさを力づくでねじ伏せて、口を動かした。

「……今はまだ……先のことは考えられません。後日また、返事しに来ますので」

会長達とはそれ以上顔を合わせられなかった。

逃げるように頭を下げて、ロッカールームへと急いだ。

立ち並ぶロッカーのなかで、自分のロッカーを見つける。

今まで気にならなかった、錆が妙に目についた。目を逸らしながら、ロッカーを開け、入れっぱなしだったグローブやバンテージ、縄跳び、着替えなどをボストンバックに入れる。誰にも話しかけられたくなかった。素早く出ようとした時だった。


「リングよか早い逃げ足ィ、見せてんじゃねーぞ?」


和樹の肩を掴む手の先に、一人の男。顔からしてデカくイカつく、がっちりとした体格。細い目が、和樹を射抜くように見つめる。


「逃げ足って言うなよ、城島じょうしま


和樹は久しぶりに心から、微笑むことができた。気づけば、息苦しさは消えていた。だから、ごく普通に喋ることができたのだった。

「俺はただ、みんなに変に気を使わせたくないだけだ」

「うるせぇ、黙れ、そんで待ってろ……話がある」

「俺もだ……俺も、話があるんだ」

数少ない親友たる城島誉じょうしまほまれに、和樹は言った。

うなずいた城島は来ていたサウナスーツを投げ捨てるように脱ぎ始めた。その城島に言われた通りに待っていた和樹の脳裏に、工房からの帰り際に聞いた人形師の声が甦る。

【再びこの工房に来たいと思った時に、来てくれ給え】

和樹は思う。


(自分の身体を取り戻して……最後にコイツと戦いたい)

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