第10話 暴虐な恋心

佐伯舞華さえきまいかは浮気彼氏が公園から立ち去ったと同時に、人形師に言われた通りに目を閉じた。

思い浮かべるのは、己の身体を縛る鎖。心の枷。それを引き千切るだけでいい。


【一度解き放ったが最後、もう二度と人間には戻れないよ】


人形師のそんな警告を思い出すも、一瞬も迷わなかった。

(わたしは純くんの傍に、ずっとずっとずっと居る……それだけでいい)

心の内で、己の身体をとらえる鎖が粉々になっていく。

ただの想像だと言うのに、何故か、身震いするほどに気持ちが良い。背筋を這い上がってくる快感に身をゆだねていると、身体の中から、きりきり、と聞き慣れない音がする。


身体が変わっていく感覚。どうしようもなく、嬉しい。生まれ変わっていく、あるいは誕生の喜びを追体験しているようだ。


新しい身体の使い方が分かった。そう実感した。慣れればきっと、手足を動かすのと変わらない。それが感想だった。


(……純くん)


立ち去った岸辺純の背中を思い浮かべながら、俯かせていた顔を上げる。慣れない所為か、少し身体の動きが遅い気がするが、立つことに支障はなかった。


ついさっきまで居なかった、男の人が数歩の距離に立っていた。

(……誰?)

自分の、変貌した顔を見つめている男に、舞華は思う。

(純くんじゃない……なら、誰でもいいや)

今の自分の顔は初めて工房に行った日、彼氏と別れた後に尾行して見かけた女の顔のはずだった。

(あぁ……男の人が何気なく見ちゃうくらいやっぱり、この女の顔は綺麗なんだ)

自然と浮かんでしまう笑顔を見知らぬ男に向けつつ、脇をすり抜け、舞華は歩き出す。


公園を出て、出来る限り早く歩を進める。

事前に練習した通り、裏道を抜け、先回りするようにして。


「……あ、岸辺くん」

別れたばかりの彼に、もう一度、出会う。

「え? あれ?」

見ていたスマホを慌ててチェスターコートのポケットに入れた純は、かすかに眉根を寄せている。

彼の反応が予想通りだった舞華はただ、自分の口から出た声に思った。

(あ、変わってる。可愛い声だな、この子のは)

純といえば舞華の内心……いや舞華が目の前に居るなど知るはずもなく。

「偶然だね……っていうかさ、実家に帰ってるんじゃなかったの?」

軽やかな笑みを浮かべた。

(こうやって笑うんだ、この子には)

思いながらも、舞華は冷静に記憶を再確認した。


三日間ずっと尾行していた、純の浮気相手の女から盗み聞いた情報。


それらから考え抜いた嘘を、口にした。

「ん、実家に帰ってるはずだったんだけど。新幹線の切符、日付間違えて買っちゃててね……明後日まで帰れないんだ」

「ん? あれ? ツイッターでは……」

「今日、駅でスマホなくしちゃって……それでかな、アカウント盗られちゃったみたい」

「うっわー最悪じゃない、大丈夫?」

「大丈夫じゃないよ……でも、もう今日はいいや、何も考えたくないんだー疲れちゃったから、もうね、家で休んじゃえと思って……」

「そっかーオレに何かできることがあると良いんだけど……」

「……あるよ。鍵も一緒になくしちゃってるから……」

「荷物持ってないもんな、バックごとなくしたのか……」

純はスキニージーンズにカラナビでつけていた鍵束をポンと叩く。

「俺と今、出会ったのは運命ですね?」

「ははっ、本当っ! 岸辺くんに合鍵、渡して置いて良かった」

舞華は純に笑いかける。

(今、きっと純くんはこの子のこと、今、すごっく好きなんだろうな。だから、あたしの考えた、つまらない嘘を信じてくれてる)

純は優しい笑顔で何度かうなずいた。

「はははっ、本当にね。んーと、今夜はとりあえず、俺が一緒に考えるよ、スマホやらアカウントやらをどうやって解決するか」


言って、純が手を差し伸べてくる。

(あ、この人には手、繋いであげるのが普通なんだ)

思いながらも握った、純の手。

その感触、その体温。伝えてくるのは、彼の感情。


(……こんなにも、この人は愛されてるんだ――あたしとは違って)


心に充ち満ちていく幸せは、別の女から盗みとったもの。

それを心に抱き締めたまま、彼と歩いたことのない道を一緒に歩く。

自分じゃない自分と、彼との間に流れる時間。

ゆっくりで穏やかで――冬の冷気さえ忘れるくらいに暖かなもの。自分じゃなくなった肌がそう感じていた。


(こんな時が、あたしと純くんの間にも、あったな)

過去の幸福が悲しく、思い出された。

現在の自分が失ったもの、自分を失って得た――彼に愛されているという、今。それが悲しいぐらいに、嬉しかった。


内心で入り乱れる複雑な情緒に囚われることなく、舞華の口は勝手に純と言葉を交わしていた。


「あれ? この電柱の横、曲がるんだっけ?」

「うん、そうだよ。この辺、似たようなとこ多いから分かりづらいよねー」


別の女として喋る自分の口はもう、自分のものじゃなかった。そのぐらい、なめらかに嘘が出る。嘘ばかりの無難な会話を彼と交わしながら、辿り着いたのは立ち入ったことのない、自分じゃない自分のマンション、その部屋のドア。


「じゃ、開けちゃうねー」

彼が合鍵で、ドアを開く。

一緒に入っていく。

(これで、誰も見ていない)

背中で扉が閉まった音を確認して。

「岸辺くん」

舞華は純に抱きつく。

彼も、そうしてくれる。

彼の頬と自分の頬とを触れさせ合った。

それは確認だった。


(あたしはこうして……)

 

彼への憎しみや怒り、まして浮気相手への嫉妬など、舞華にはありはしない。


改めて、舞華は思った。

(あたしはただ、


彼が今、好きな女の外見を自分は持っている。

それだけで騙せる人間は居る。

個人情報も難しくないだろう、指紋も虹彩も同じなのだ。


(ううん……あたしは飽き足りない――この女だけじゃ)


この身体を手に入れる時の、人形師の言葉が脳裏で甦る。

【今のキミが持つ人形からだの身体機能はね、どんな人間の姿形にでも模倣出来る。ただし自分の姿には二度と戻れない、それでもいいかね?】

舞華は迷わなかった……理由は一つ。


(普通の男の人だって、何人かの女の子と付き合うのが普通。純くんはきっと、それ以上。でも、あたしは好き。それでも好き、何があっても好き)


だから、舞華は渇望する。


(あたしはこれから純くんが恋をする、全ての女にすり変わる)


湧き上がってくる歓喜に口元が綻ぶ。


(あたしはそうして、純くんの恋人で浮気相手で結婚相手で不倫相手になっていく――ずっとずっと、ずっと)


そこまで焦がれるように渇望して、ふと気づく。

(……そうだ、今のあたしは男の人にだってなれるんだ。なら、親友でも悪友でも同僚でも先輩でも後輩でも……全部全部全部、あたしで良いよね)


自身で思い描いたことに、恋をする。

夢を見ることを初めて知った。

ごく普通の女で居たなら得られない幸福。

今の自分の身体ならば手に入る。

(純くんの友情も愛情も、大事な誰かに向ける感情を全て……あたしは独占できるんだ)


自分の頬に触れてきた彼の唇に、


(あたしがずっとずっと傍に居て、あたしだけで彼の人生を満たしていこう)


舞華は自分じゃない自分の唇を押し当てた。

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