第2話
▼広隆寺門前のあばら屋
【戦続きの京の都ですが、洛中からやや外れたこの古の大寺までは戦火もまだ及んでいないようで、広隆寺あたりの冬の夜は、真っ暗闇以外、門前を灯すものはありません。夜の闇に溶けた伽藍も弥勒菩薩も、すっかり人々から見えなくなっています。意地の悪い比喩ではなく。おっと、もとい。見渡す限りの闇のなかに一点だけ、ひっそりと蝋燭の明かりの漏れる廃屋が。その中に隠顕する人影がしゃべることには】
あばら屋の主「お坊さま、いいんで?いくら夜も遅いとはいえ、見つかりでもしましたら」
天龍寺の僧 「ふ、心配ご無用。天龍寺のほうももう寝静まっておる。もしかしたら熱意のある者どもがせっかくの夜を徹して読経しておるやもしれんが。まあそれも乱れた世にはご利益もないこと」
あばら屋の主「やけに厭世的ですな。でも、そうであるからこそ、私もこうして天龍寺の僧侶様とお近づきになって話せるのですから、感謝せねば。たっとい、たっとい」
天龍寺の僧 「心にも思っておらぬことを。お互いにな。なに、五山が整然としていた室町の昔が今だとしても、愚僧は愚僧。どれ、もういっぱい般若湯を頂くとするかの」
あばら屋の主「どうぞどうぞ。お山で般若湯の臭いに気づかれない程度に」
天龍寺の僧 「余計なお世話じゃ」
あばら屋の主「知らぬは本人ばかりなり、となりませんぬよう」
天龍寺の僧 「留意しておく。あそこには、おしろいの匂いをさせた高僧もいるでな。ぷんぷんとさせて法堂の龍の真下に帰るとも」
あばら屋の主「話が出たから申し上げますが、廓に坊主頭も見え隠れすると、数年前、当時大勢いた長州の浪士も言っておりましたよ」
天龍寺の僧 「さもありなんだ。長州はいっとき去ったが、京の坊主は今も昔も健在でひしめいておる。持て余しておるのだろ」
あばら屋の主「それじゃ、あたしのような市井の信徒もほとほと呆れてしまいます」
天龍寺の僧 「何をいまさら。露悪的な物言いをしよって」
あばら屋の主「とんでもございません」
【それまで静かに更けてゆくだけだった夜に、どこからか鳴り物、打ち物、人間の囃し声が聞こえてきます】
天龍寺の僧 「時に、なんだ、夜だというのにどこかで祭礼でもやっているのか?遠くで何か聞こえないか?」
あばら屋の主「ああ、ほっとくことですよ。近頃人々を浮かれさせる、良くない馬鹿踊りをどこかでやってるんでしょう」
天龍寺の僧 「まだ見たことはないが、これがその声なのか」
あばら屋の主「ああいうものは、ほっとくことです」
天龍寺の僧 「世の中、なにに浮かれるか、戦か、踊りか、酒か、色か、仏か。はは。かつての浪士も今や錦の御旗を掲げるとかいう河原の噂。都を焼いた者どもも今や禁裏御料を守る者。世の流れとは読めぬもの」
あばら屋の主「お寺のほうは三年前ですか、それこそ長州に」
天龍寺の僧 「なかば押し込みのようだった」
あばら屋の主「あたしが長州の間者だったらどうします?」
天龍寺の僧 「公武も藩も執念はござらん。あまねく救う教えを探求していればおのずと」
あばら屋の主「たいそうご立派な。法堂のおしろいとはお坊さまのことで?」
天龍寺の僧 「そう信じていた若かりし頃が懐かしい、ということじゃ」
あばら屋の主「失礼しました。からかったわけではございません。でも、お経とともに身につけられた古物の目利きは」
天龍寺の僧 「経のほうはめっきりだったが、こちらのほうは大いに助けられておる」
あばら屋の主「都でも一二を争う目利きの確からしさに、諸大名にも頼られますでしょう?」
天龍寺の僧 「せいぜい田舎大名に、な」
あばら屋の主「ふふ、ご謙遜はよしなされ」
天龍寺の僧 「これだけはあっちに礼を言わずはなるまい。寺宝の数々、禅寺にもかかわらず蒐集した古来の貫主の手柄か」
あばら屋の主「お寺に足を向けて眠れませんな」
天龍寺の僧 「少し酔ってしまったようじゃ。今に似合わぬ正直さが。今宵はめでたき品も手に入った嬉しさ、祝い酒も度が過ぎるといけぬ」
あばら屋の主「どうせ今夜はお寺には帰らぬのでしょう?違うか、菩薩様のもとには帰りますかな」
天龍寺の僧 「ふふ」
あばら屋の主「それにしてもお坊さまの目をしても珍しい品ですか?」
天龍寺の僧 「ああ、それ自体、ここ数年の京の戦が焼け出した品なのだろうが」
あばら屋の主「そんなこと考えだしたら古物商なぞ」
天龍寺の僧 「誰が古物商とな?」
あばら屋の主「失礼、失礼。口が滑りました。品のほう、今お持ちで?」
天龍寺の僧 「ああ、持ってはおる」
あばら屋の主「もったいつけずに拝見させてくださいな。ぱっと見当たらないということは小物ですか?懐のなかにでも?」
天龍寺の僧 「はは、仕方ない。なかなか高価なもので、肌身を離せぬといったところだ。それに、物が物ということもある」
【そう言って、他に人もいない辺りを適当にうかがう素振りをして、懐中から細長い品を取り出します。そしてそれは、仏の身には似つかわぬ、鞘冴える小太刀であるとわかります】
あばら屋の主「ほう、これはこれは。お坊さまにふさわしくもない」
天龍寺の僧 「であるから出さなかったのだ」
あばら屋の主「して、銘のほうは?」
天龍寺の僧 「来国時」
あばら屋の主「あたしでも知っている。鎌倉の御代、北条得宗家に伝わるという?」
天龍寺の僧 「ああ。古に、蒙古を退けた北条時宗公の持物だったという業物だ」
あばら屋の主「由来も由来。今日び、うろうろする侍なぞ、喉から手が出るほど」
天龍寺の僧 「由来は面白いと思うが、この手元にあるのもきっと、いっときのこと。元来血を吸う包丁に過ぎぬ。愚僧は一刻も早く一銭でも多くの金子へ換えてしまいたいものよ」
あばら屋の主「業物を持てば侍の格が上がる、武運を得て論功行賞の誉れに預かる、という思い違いをする田舎侍にでも、早晩売りつけるのがよろしいでしょう」
天龍寺の僧 「明朝より薩州の藩邸で禅の行いがある。かけあっていかほどになるか」
あばら屋の主「芋侍は儲けておりますから。きっと大枚に化けるでありましょう。あやかりたい、あやかりたい。その小太刀が血を吸いたがっているのかもしれませんよ。ほら、お山もいっとき長州人の屍でごった返したでしょう。うすら寒い」
天龍寺の僧 「あの時は、ああ、思い出すのも嫌なことだが、山門の下に集めてな。萩の菩提寺に引き取られるまで、それはもうその惨状たるや。何人もの僧が手伝いに駆り出され、多くの者が去った。あれは仏も神も救いようもなかったろう」
あばら屋の主「こちらでは一時期、火の玉の噂がありましたよ。なんでも、火の玉は決まって、西へ西へと浮遊していたそうで」
天龍寺の僧 「死して西国の故郷を目指すか。儚き定め。この小太刀も大枚で買い取られて奥座敷に鎮座するだけであれと、堕落したこの身上でも祈るばかり」
あばら屋の主「へへ、杯が空になってますよ。もう一杯」
天龍寺の僧 「ああ、では。ちと柄にもなく」
あばら屋の主「どうせ、小太刀が舞い込んだ経緯も、ひとかどならぬ悪い話がおありなんでしょう?」
天龍寺の僧 「銘品の光強ければ影の濃さもまた」
あばら屋の主「旧家の後家でもだまくらかしましたか?」
【押し殺したような笑いが二人の口角から滲む闇のただ中、さっきよりも近づいてくる大騒ぎの声】
帷子ノ辻あたりの大合唱
「ええじゃないか、ええじゃないか」
天龍寺の僧 「だまくらかすとな?うるさいわ。うるさいと言えば、踊りの声がいよいようるさくなってきたな。ぶつからないうちに、おいとませねばな」
あばら屋の主「そうですか。残念。面白そうな話があったのに。帰り道は、帷子ノ辻は通らないほうがいいですよ。まあ一緒に踊っても一興ですがな」
天龍寺の僧 「真っ平御免」
あばら屋の主「さようなら」
帷子ノ辻あたりの大合唱
「ええじゃないか、ええじゃないか。金子欲しさに後家だましても、ええじゃないか、ええじゃないか」
-第3話へつづく-
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