第34話 『春眞』

(幕間)


 糸上統が皆葉日和と結婚したのは、高校を卒業と同時のことだった。


 学生の内から、彼女のお腹に中には新しい命が生まれていた。

 互いの両親から勧められたこともあり、

 結婚、出産に至るまでは特筆、苦労はなかったように思える。


 反対されると決めつけていた統の不安とは裏腹に、両親は喜んでくれたし、大変だからと手を貸してくれて、大学に通いながらもなんとか生活ができていた。


 もしかしたら、親に甘えている、と言われるかもしれない。


 しかし、使えるものは使うべきだと、彼女のタフな精神がそう言わせていた。


「こんなに早く孫を見られて親も喜んでるし、なにかしたいって思ってくれてるんだ。いいじゃないか、他人なら好き勝手言わせておけば。

 臣を見習えって、あいつはなにを言われても気にしていないじゃないか」


「はは……臣は多分、聞いてさえいないんじゃないかな……。

 日和こそ、殴りかかりそうで僕は少し不安だよ……」


「殴らないって。この子がいるんだから……殴りたくても殴れない」

「殴りたいって思わないで……」


 まだ子供を抱えていることが多いからという物理的な理由だろうか。

 近くにいた両親に、言葉遣いを気を付けろ、と彼女が怒られていた。


 それを見て、抱かれていた赤ん坊が笑う。

 我が子につられて、彼女も微笑んだ。


「こいつめ、あたしを笑うとは良い度胸だ」

「……ねえ日和。どうして、その名前にしたの?」


 生まれた子供の名前は、彼女が決めた。

 彼女が強く推し、統も彼女が決めたのなら文句もなかった。


 それに、字を見て綺麗だと思った。

 可愛い名前だと気に入ったのだ。


「こんな天気の良い春に生まれたんだ……、この字を入れないわけにはいかない。

 それに、あたしはこの子に、嘘をつく人間にはなってほしくなかったんだ。物事をはっきりと言うくらいでいい。社会に出たら困ることもあるかもしれないし、人に嫌われることもあるかもしれない……。それでも凹まず自分の気持ちを正直にぶつけられる子になってほしいって……、そういう願いを込めてみたんだよ」


「だから――春眞」

「ああ。糸上春眞。良い名前だろ?」



 その後、

 春眞はすくすくと育っていったが、

 それに反して彼女――皆葉日和は衰弱していくようになる。


 きっかけは分からない。

 急に彼女が吐血をし、それ以降、

 彼女は体調を崩すことが多くなり、ベッドで横になっていることが多かった。


「ママー、えーほーんー」

「はいはい、じゃあ、こっちにきな」


 家事をする動きは無理でも、こうして子供のために絵本を読み聞かせるくらいはできていた。

 しかしそれも次第に難しくなっていく。

 一日の内に、意識を失うことが何度もあった。


 統は大学を退学し、両親を頼って生活を続けていた。

 子供の世話と彼女の介護で統はまともに休むこともできていなかった。

 だが、彼を最も苦しめていたのは、不安だ。


 一向に良くならない彼女の病状に、恐怖を覚えていた。


 春眞と過ごすのは幸せだ、

 日和のために睡眠時間を削ってでも世話をしているのだって、

 もう一度彼女の笑顔が見たいからだ。


 苦しいなんて思ったことはない、

 つらいなんて泣き言は思いつきもしない。


 負担なんて一切感じない。

 ただただ、恐い。

 それだけが、統の精神を削っていた。


「ママ、えほん……」


 母親の寝室の前にいた春眞に気付く。


「パパが読むよ」


 弱々しく頷いた我が子の不安な顔を見て、鏡映しだと悟ってしまう。

 親が不安な顔をしていれば、それは子供に伝染する。


 母親が、良くない状態だと、感じてしまっているのだ。


「大丈夫。きっと、ママは良くなって戻ってくるから。また、読んでもらおうね」




「残念ですが……」


 医師の診断が下された時、頭の中が真っ白になった。

 容態の急変だ。


「あと一週間だと思っていてください」




 亡くなる寸前の皆葉日和には、以前までの強さがなかった。

 余命が告げられる前から、彼女は分かっていたのかもしれない。


 脱色したように髪は真っ白になり、痩せて骨ばった体になっていた。

 触れたら崩れてしまいそうな、そんな脆さがとても痛々しく見えてしまう。


 自宅から病室へ移動し、いついかなる時でも対応できるような設備があった。


「大げさだな、まったく、統らしいけどさー」


 どうせ死ぬんだから、お金がかかるような機材なんていらないとでも言いたげだ。


「お金は大事だぞ。あの子がなに不自由なく成長できる環境を整えるのにいくらかかるか分かってるか? いつまでもお父さんとお母さんには頼っていられないんだぞ」


「……日和が、生きてくれれば、大丈夫だよ」

「あのな、諦めろよ。あたしはもう無理だ。ほらみろ、ちょっと力を入れて髪を掴んだらこんなにも抜けるんだぞ? それだけ、あたしは弱ってる」


 彼女の白髪が、統の足下に散らばった。


「ごめん……力になれなくて」


「なに言ってんだ、統はあたしのためにたくさんやってくれた。全力を尽くしたんだろ。何度も頭を下げた、色々な情報を探した、あたしを助けるためにしなかったことを探す方が難しいくらいだ。……できることを全部やってダメだったんだ……なら、仕方ないよ」


「結果が出なかったら、意味がないだろ!!」


 静かだった病室に怒号が響く。

 背後で扉が開く音に、統がはっとして冷静さを取り戻した。


「ご、ごめん。僕は、君に八つ当たりをするつもりじゃ……!」

「おっ、春眞、遊びにきたのかー?」


「……うん。はいって、いい、の……?」

「もちろんっ。なっ、パパ?」


 統の怒号を聞いたのか、怯えて病室に入ってこれない我が子を日和が手招く。


「……うん、大丈夫。一緒にママとお話しよう、春眞」


 悲しい顔にはさせてはならないと、言葉にはしない日和の約束を、統は守ろうとした。


 とことこと駆け寄ってくる春眞を抱き留め、両手を広げて待つ日和へ預ける。


「春眞、ママのこと好き?」

「うん、好きだよ!」


「じゃあママは大好き」

「む。大大好き」

「なにおう、大大大好き」

「大大大大好――」


「二人とも、それじゃ終わりがないよ」


「パパは?」

 娘の純粋無垢な瞳に、統はたじろいだ。


「僕は……」

「どれくらい好きなのかねー?」

 と、日和からの圧力に、まるで昔を思い出す。


 力強さをまだ持っていた、彼女が戻ったかのようだった。


「大大大大大――好きだよ」


 皆葉日和。


 彼女は二十一歳の誕生日を向かえた数日後に、この世を去った。

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