第18話 犠牲者は一名

「かみっ……」

 と呼びかけてしまいそうになって慌てて口を手で押さえる。


 ガスマスクの子がまだいて、上岡に気付いていなかったとしたら、

 あたしの呼びかけでこの場にいることを教えてしまうことになる。


 上岡にとっても危険な場所なんだから!


 直接会おうと、一旦上岡に背を向けて、手近にあったエスカレーターを下る。


 上がりエスカレーターだったけど、二段飛ばしで下りて、

 逆行をものともしないで一階フロアへ辿り着いた。


 上から見た吹き抜けの下で、上岡の背を見つける。


「上岡っ」


 そう大きくない声で呼びかけて、足が自然と早くなって小走りになった。

 高い天井が見える吹き抜けのサークルの中へ、足を踏み入れて、



「ダメぇッッッッ!!」



 ――ぐわんと視界が大きく揺れて、気付いたら横から突き飛ばされていた。


「うぎゃっ」


 変な声が出て、勢いのまま床を滑る。


「なにすんの! ……って、雛緒ちゃんだったの……?」


 上の階で意識を失ってたはずだけど……、途中で目を覚ましたのだろう。

 あたしが忘れてここまできちゃったことを怒ってる……?


 でも、ちゃんと後で迎えにいこうとは思ってたんだよ?


「はるまちゃん、そこからこっちへは絶対にきちゃダメだよ」

「……雛緒ちゃん……?」


 首元に浮かび上がっている斑点模様が、顔に伸びてきていた。


 何度も咳を繰り返し、あたしに見せないようにすぐに手で拭っていたけど、口の端から垂れた痕が残ってしまっていた。


 ……見えたのは、赤黒い……、血。


「ね、ねえ! 雛緒ちゃんッ、血が! それに、手の皮膚が……ッ!」


 ぶくぶくと気泡みたいに膨れて、次第に弾けていた。

 手にたくさんのポップコーンをくっつけてるみたいに。


 でも、言葉とは違って痛々しい。


「……あ」


 その症状はまるっきりガスマスクの子たちと同じだ。

 ただ、ガスマスクの方は咳はしてなかったけど……、

 いや、違う、雛緒ちゃんはまだ進行してる段階だからなんだ。


 あの子たちはもう、

 いき着くところにいき着いてしまった結果で、

 だから動くことなく倒れているんだ。


 え? じゃあ雛緒ちゃんも、いずれああなるってこと……?


 いずれ、と言うほど遠い時間じゃない。

 もうすぐそこまで差し迫っていると言えた。


「どうしたら……!?」


 思わず、言いつけも守らずに駆け寄ろうとしてしまって、

 雛緒ちゃんの本気の怒声が飛んでくる。


「来ないでッッ!!」


 ただれた手の平の皮膚を見せるように、あたしを通せんぼする。

 なんで……なの……?


 雛緒ちゃんが大変な目に遭ってるなら、助けたいって、あたしだって思うのに!


「こっちに近づいたらね、はるまちゃんもこうなっちゃうから――」


 雛緒ちゃんが血の塊を吐き出した。

 それでも、雛緒ちゃんはあたしを止めようと片手を伸ばしたままだった。



「なにやってんの……っ」


 雛緒ちゃんがこんなに苦しんでるのに……、大変なのに――なんで!!


 なんで――後ろで立ち止まってるの!?


「バ上岡ぁ!!」



「…………」

「先輩、すみません……わたしが、自分で入ってきてしまったので……」

「……近づいても、いいか?」


 二人の会話までは分からなかったけど、

 近づく上岡に、雛緒ちゃんが笑いかけていた。


「もちろん、良いに決まってるじゃないですか」


 上岡が屈んで、膝を落とした雛緒ちゃんの背中を擦った。


「政府に連絡して、俺の今の血中成分から解毒剤を作れば、お前の症状も軽くすることができそうだが……耐えられるか?」


 はは……、と雛緒ちゃんが声も出せずに笑った。


「……無理、っぽいです」

「そうか……」


「でも、先輩のせいじゃないです。わたしはこうなることだってあるって、覚悟を決めて先輩の隣にいるって決めたんですから」


「分からないんだ。どうしてお前は……俺を追って、大学まで決めたんだ。……俺は、面倒見が良くない、人の痛みを想像して優しくもしてやれない。……あいつらとは違う。結局、俺といてお前はなに一つ、お前が理想としていた生活を送れなかっただろう」


「先輩?」


 雛緒ちゃんがむすっと口を尖らせた。


「理想の生活なら送れてますぅ。わたしは幸せならそれでいいんです。

 先輩と、初めは家族ごっこでしたけど、今ではもう、本当の家族みたいなものじゃないですか。夫婦なんですよー、夫婦」


「夫婦に憧れていたなら、俺でなくても良かっただろう。こんな曰く付き……それがなくとも俺は、欠陥ばかりだ。お前は昔から、遊んでいる割りに見る目がない」


「そうは思いませんよ。わたしはわたしの見る目が正しいと思ってます。絶対です」


 再び、吐血し、バランスを崩した雛緒ちゃんの体を、上岡の手が支えた。


「理屈なんてもはや関係ないんですよね。高校に入ってから数ヶ月、わたしは色々遊び回ってましたけど、先輩を見かけた時にびびっときちゃって、一目惚れだったんです。先輩は自分のことを欠陥ばかりって言いましたけど、わたしの目にはそんなの見当たりませんでしたよ。

 欠陥含めて、わたしは先輩を、好きになったんです」


「……そうだったのか……分からないものだな」

「いや、わたし先輩に何度も告白してるんですけどね……」


「からかわれているのだと、思っていた」

「先輩らしいですけど……じゃあ、先輩。分かりますよね?」


 上岡が眉をひそめた。

 雛緒ちゃんが盛大な溜息を吐く。


「なら、改まって告白しますから、ちゃんと返事、考えてくださいよ?」

「…………分かった。ちゃんと、考えよう」


「はいっ、先輩」


 雛緒ちゃんはそれきり、口を動かさなかった。



(坂上辰馬)


 スマホの点滅に気付いて確認してみると、父さんと誠也からの着信があったらしい。

 二時間前だ。


 現在時刻は夕日が落ち始めた頃で、

 どうやら、僕はふとまぶたを下ろした時にそのまま眠ってしまっていたようだ。


 それにしても、誠也はともかく、父さんから着信は珍しい。

 父さんの方からは、初めてじゃないだろうか。


 とりあえずかけ直そう。

 選んだのは誠也の番号だ。


「ごめん、寝てて気付かなかった」

『すぐに出てこれるか? 必要なら誰かを迎えに回す』


「? なんで? まあ、着替えてないから、すぐに出れるけど……」


 ただ、顔を洗って、寝癖くらいは直してから出たい気分だ。


 誠也の口調はいつもと変わりなかった。


「買い物に付き合ってくれよ」

 と続きそうな、焦りも波もない、平坦な声。


 だからこそ次に続いた誠也の言葉に、僕の耳がおかしくなったのかと思った。

 音を取り入れた過程で、内容が改竄されたのかとも。


 しかし、父さんの着信が、信憑性をぐっと上げていた。


『今、病院にいてな。ついさっきだ、ほんの数分前に――母さんが死んだ』

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