第15話 思い出の痕跡
(糸上春眞)
「…………はっ」
来客のチャイムの音で、ぽーっとしていた意識が元に戻った。
あれ? 坂上くんは?
クッキーは……、良かった、食べてくれてる。
じゃあさっきのあれは、夢じゃなかったんだ……!
「えへへ……」
だらしなくなっちゃう表情を両手で押し上げる。
あたしは食べてないのに、ほっぺたが落ちそうになった。
「もう、うるさいなあ」
繰り返されるチャイムにうんざりする。
幸せな気分が台無しだよ。
いつもなら上岡が出てくれるはずなのに、今に限ってなにをしてるのか。
「上岡ー」
と呼んでみたけど出てこない。
……隠れて遠くからあたしの反応を見て楽しんでいる……、わけじゃないみたいだ。
お手伝いさんは、基本的に来客の相手はしてくれないし……、
あたしが出るしかないみたいだ。
インターホンのモニターを覗くと、見慣れない女の人が立っていた。
「……誰だろ」
はーい、と声をかける。
用件を聞くと、上岡の身内の人だと分かった。
奥さんなのかも。
子供もいるって前に聞いていた。
上岡の言うことだから、冗談かもしれないとも思っていたけど、本当っぽい。
……そっか、上岡も、ちゃんとお父さんなんだ……。
今更実感する。
あたしのことは仕事で、夕方にはいつも帰っているから分かってはいたんだけど、
やっぱり、あたしは一番じゃないんだなって、言われた気分だった。
重たい足を引きずるようにして動かし、玄関から鉄門まで歩く。
しばらく待たせてしまったけど、
上岡の奥さん(?)は、嫌な顔一つせずに待ってくれていた。
「ごめんなさい、今、どこかにいっちゃってて……」
「そうなの? じゃあ、これ、あの人の忘れものらしくて……」
手提げカバンを渡される。
中身は、難しそうな書類だった。
「もう帰る、んですか……?」
「仕事の邪魔しちゃ悪いし……それに、知らない人を簡単に家に上げたらダメだよ?」
上岡がお父さんなら、この人はお母さんってことになる。
…………お母さん、か。
もしもまだ生きていたら、こんな風に、いけないことをダメって叱ってくれるのかな。
「…………はるま、ちゃん?」
ふと、その名前の呼ばれ方に既視感があった。
クレヨンで描いたような、淡い色の記憶の中に見えた、この人の姿があった。
あたしはその時、お母さんに抱かれていた。
……この人は、お母さんの……?
「やっぱりはるまちゃんだ! 覚えてる!? いや、覚えてないよねっ、だってあの時はまだ赤ちゃんだったし。わたし、先輩の……はるまちゃんのお母さんの後輩なの」
「お母さんの……?」
「うん!
あたしは、咄嗟にこの人の手を掴んでいた。
「はるまちゃん……?」
「…………っ」
お母さんを知ってる人。
お父さんは、いくら聞いても教えてくれなかった。
写真も映像もなくて、僅かな記憶の中にしかいないお母さんをもっと鮮明にしてくれる人は、この人しかいないと思った。
気が急いて、声が出なくなって、力だけが増していく。
ぎゅうっっ、と掴んでしまったあたしの手を、覆うように手が重ねられた。
「ねえ、はるまちゃん。この後、時間ある?」
考えるよりも先に頷いていた。
「じゃあ、ちょっと出よっか」
「うん。……あっ、手、を……」
「いいよ、繋いだままで」
空いている片手はきっと、お母さんの手で、埋まっていたんだろう。
(坂上辰馬)
『……能力者、ね。だからお前はあいつを気にかけてたのか』
「上手く利用できるかなって思ったんだけど……能力者にとって一番嫌なのは正体がばれることでしょ? 大々的に報道された能力者の末路がああなんだから、ばれたくないって思うはず。だからその危機を救ってあげれば、糸上の中で僕の存在は大きくなる」
糸上にとっては唯一の味方だ。
記憶消去が通用しない以上、僕をどうこうできないし、
彼女はもう、しようとも思わないはずだ。
今のところ、良い関係を築けてる自負はある。
『お前らしいよなー……、褒めてるんだぜ? やり方がえげつない』
「目的のためなら泥も被るよ……でもその目的も、達成するのは難しそうなんだ」
というか無理っぽい。
ターゲットの暗殺に糸上を使えば――、と思ったけど、糸上とターゲットの間に深い絆ができてしまっている以上、言いくるめる難易度は跳ね上がる。
勘違いさせて、というやり方もあるけど、同じだろう。
ターゲットと既知であるというだけで、分厚い障害になってしまう。
「幸い、職場が分かったんだ、それだけでも時間をかけた価値はあった。
ひとまず、これまでの計画を白紙に戻してまた考えてみるよ」
『ああ。……報告、助かった。今日の夜にまた計画を詰めてみるか』
誠也との通話を切る。
一日がかりになるかと予測していたが、思ったより早く帰宅できそうだ。
「誠也は、騒がしいところにいるんだな。今日もデートかな?」
通話先の店内アナウンスを拾って聞いてみたら、近くのショッピングモールだった。
(糸上春眞)
連れられたのは近くのショッピングモールだった。
オシャレな喫茶店で、あたしの分の飲み物まで買ってくれた。
生クリームがソフトクリームみたいにうずまいて、飲み物の上に乗っかっている。
「わたしと同じのにしちゃったけど、良かったかな?」
「うん。ありがとう」
お母さんよりも二つ年下の後輩らしい。
ということは、えーっと、三十二歳?
……見えない。
「わたしのことは
と言ってくれたので遠慮なく呼ぶけど……、
雛緒ちゃんが見せてくれた昔の写真には、あたしのお母さんと雛緒ちゃんが写っていた。
十年以上前の写真らしいけど、雛緒ちゃんは今とまったく変わってない。
「ちゃん付けかあ……昔はよく呼ばれてたから、懐かしい。
わたしって、結構色々な人から可愛がられてたんだよね」
例外もいるけどね……、
と小さく自嘲した後、雛緒ちゃんが写真を指差した。
「そうそう、ちなみに、隣にいるのがはるまちゃんのお父さん」
「あ、ほんとだ……言われたら、確かにお父さんだ……」
お母さんを真ん中にして、お父さんと雛緒ちゃんがぎゅっと真ん中に寄っている。
旅行先で山の景色をバックに記念写真を撮ったんだろう。
三人のはしゃぎようから、楽しそうなのが伝わってくる。
ただ、この写真のお父さんと、あたしの知るお父さんと大きく違うのは、表情だ。
お父さんは、こんな風に、気が緩んだように笑ったりしなかったのに。
やっぱり、お母さんがいなくなったから……。
――ダメだダメだっ、と強く首を左右に振って悲しい気持ちを飲み込む。
今、一緒にいる雛緒ちゃんを困らせたらダメだ。
なにか、前向きになれるような話題を……、
探していたら、見つけた。
三人の集合写真。
まず表情に目がいくから分かりにくいけど、お父さんはお母さんと手を繋いでいた。
ちゃんと、恋人繋ぎだ。
「あ、本当だね。
雛緒ちゃんも今、十年越しに気付いたみたいだ。
「そうだったんだ……、お父さんは、そういうとこ積極的じゃなさそう」
お父さんは、ちょっと根暗な感じ。
お母さんはロックバンドのボーカルみたいな強い女性って風貌だった。
多分、性格も男勝りだろう。
雛緒ちゃんは見た目は今と変わってないけど、
いま以上に落ち着きがなさそうなのは伝わってくる。
ギャルってほどじゃないけど、たくさん遊んでそうなイメージだ。
「はるまちゃんこそ、赤ん坊の頃から落ち着きがなかったよ?
先輩、かなーり手を焼いてたんだから」
お母さんに怒られた記憶は……思い出せない。
「怒ってはなかったかも……んっ、そっか。先輩、はるまちゃんとの接し方に戸惑って、遂にわたしに助けを求めてきたんだから。なんにでも自信満々だったあの先輩が、こと子育てになると不安がたくさんあって……いま思い出してもあの取り乱し方は面白い……!」
ひとしきり小さく笑った後、
雛緒ちゃんが、
「はあ」と呼吸を落ち着かせた。
「お母さん、お父さん、それに雛緒ちゃん……、
タイプが全然違うのに、仲良しグループで一緒だったんだね……」
「はるまちゃんのお母さんがまとめたんだよ。あと、三人じゃなくて、四人なんだ。もう一人いるんだけど……この写真を撮ってくれたカメラマンがね。
あの人は、無愛想で、一人を好んでね、近づいたと思ったら全然遠いところにいて、すぐに手が届かなくなる、そんな人なんだ。
でも、あの人もこのグループにだけは、ずっといてくれたの。滅多に笑わないし、はしゃいだりもしない。だけどね、他とは違って、楽しそうに見えるんだあ」
……好きな人のことを夢中で話す雛緒ちゃんに、見とれちゃってた。
今の姿を見ていると想像がつかないけど、四人目が、あの上岡なのだろう。
じゃあ、お父さんと上岡は、親友ってこと……?
なら、上岡は、お母さんのことを知っていたって……?
あいつ、そんなこと一言も言ってなかったのに……っ!
この場にいない誰かさんに抱くイライラのせいで、
飲み干した後も吸い続けてストローがずーずー言っていた。
「こーら、行儀悪いよ」
「だって……」
って、説明してもあたしが全面的に悪いよね。
上岡は、知ってたとして、言う義務なんてないし。
上岡なりに気を遣ったのかも。
あたしの前でお母さんの話題を出すことが禁止されていたのかもしれない。
なら、あたしから話を振ってみればいい。
そしたら、上岡も答えてくれるはずだ。
なにを聞こう?
聞きたいことがいくつも思い浮かんだ。
一番は……、でも、それは。
聞いたって、もうどうしようもない話でしかない。
聞かずに決めた質問は、しかし気を抜いたあたしは、つい口に出してしまっていた。
雛緒ちゃんが、息を飲んだのが分かった。
「お母さんは、どうして死んじゃったの?」
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