第5話 坂上ルール

 スポーツジムで訓練を終え、シャワーを浴びて制服に着替え、帰路につく。


 懐にしまっていた手帳を開き、

 今後の予定を確認したところで――、


「あれ?」

 と気付く。


 書き殴られた文字があった。


 僕、こんなの書いたっけ? と記憶になく、


 誰かが勝手に書き足した? と思ったものの、


 汚い文字だがそれでも僕の文字だった。


 細部に見られる文字の癖に、自覚があった。

 意図は読めなかったものの、文章としてはぎりぎり読める。


「いとうえはるまにきをつけろ……?」


 いとうえはるまは……、糸上春眞だ。

 クラスメイト。


 昨日の夜、ゆーちゅーばーデビューを果たした。

 今日の放課後も一緒にいた。


 面白動画を撮ろうとしたけど、結局、期待した面白いことは起きず、

 猫と戯れる女子中学生の緩い企画しかカメラに収められなかった。


 訓練に遅れたのも彼女に付き合っていたせいだ。


 …………。

 あれ? 糸上と、どうやって別れたんだっけ?


 記憶にあるのは、ガスマスク少女と話して、そのあとにジムへ向かったはずだけど、

 だったら僕は遅刻なんてしていないはずだ。


 その後の、空白の三十分間がある。


「うわぁ、疲れてるのかなあ……」


 訓練は異常なかったし、勉強も順調だ。

 体の不調、というわけでもなさそうだ。


 そもそも、そういうのを確認するためにもおこなわれている訓練なのだ。

 なにも言われていないのならば、体に異変はないのだろう。

 疲れていると思うのも、勘違いだ。


「やばっ、門限まで十五分もないぞ……!」


 走ればぎりぎり間に合う……か?


 悩んでいる時間が惜しい。

 走り出そうとしたら、呼びかけられた声に足が止まる。


 振り向くと、手を振り、近づいてくる誠也がいた。


「よっ。いま帰りか?」

「訓練の帰り」


 すると、誠也が、

「げっ」と顔をしかめた。


「……お前も、よくあんなきつい訓練を続けられるよな」


「最初は、そりゃきつかったけど、もう習慣になってるからなあ。

 逆にないと落ち着かないよ。ところで、そっちは? 門限ぎりぎりじゃない?」


「あ……、そうそれ、それなんだがよ。悪いな、お前を向かえにいってたって言い訳に使わせてくれねえ? デートしてたんだけどよ、中々彼女が帰らせてくれなくてな。

 こんな時間まで付き合わされてたんだ」


 誠也は別クラスだが、学年を越えて、学校中が知る人気者だ。


 そして、よくモテる。


 女顔に見える優男。

 着物が似合いそうな長い黒髪を持つ。


 普段は後ろで結んでいるのだが、今は解けて髪が下りていた。


「ああ、彼女の家で伸び伸びしてたからな、髪紐忘れてた」


 その姿は男装女子と言われても納得しそうな容姿だった。


「僕からすれば、デートとか付き合うとか、よくやるよって思えるけど」


 今で何人目だっけ? 

 少なくとも、片手では数えられない気がする。


「俺にも俺のやり方があるんだよ。俺なりのコミュニティってやつだ」

「じゃあ、いま付き合ってる子は……後輩だよね? 使えるの?」


「……別に、使える使えないで付き合ってるわけじゃねえっての」


 と言うけど、本気の好意が向いているとは思えなかった。

 それを言い出したら、誠也が付き合ってきた相手に、向いたことなど一度もない。


 結局、振るのも毎回、誠也の方だ。


「お前も一度くらい、女を知っておいた方がいいと思うぜ」


 いつものノリで、誠也が肩を組んでくる。


「僕には、無理だよ」


「どうしてだよ。酷い面ってわけでもないだろ。

 人畜無害な草食系男子ってだけで。そういうのを好む女だっているんだぜ。

 意外と、そんなお前ががっついたら、落ちる女はいると思うけどなあ」


「そんな暇はないって」


 定期的な訓練があるし、いつ呼び出されてもいい余裕が必要だ。

 それに、仮に付き合う女の子がいたとして、

 僕が、いや僕たちが抱える事情に巻き込まない自信がなかった。


「それに、柔軟な誠也ならともかく、僕の場合は扱いに長けてないよ。不幸にさせちゃうのが目に見えてる。壊れると分かっていて組み上げる関係性ほど虚しいものはないよ」


「ったく、良い子ちゃんめ。俺の前で気を遣ってどうすんだよ。正直に言えよ。そう言いながらもクラスにはきちんと溶け込んでるくせに。あれは別枠なのかって話だ」


「二人に心配をかけたくないから、だよ。孤立してると伝わるし。楽しい学生生活を送ってるよって証明するには口八丁で誤魔化すよりも本当に楽しんでる方が信憑性が上がる」


 信憑性以前に、本当に楽しんでいるのだから誤魔化すもなにもないのだ。

 クラスメイトと仲良くするのは、必要なことだった。


 でも、


「付き合うのはまた違うってわけか」

「ああ。目的を達成させるために、それはいらない余計なことだって思う」


 誠也に考えがあるように、僕にだって譲れないポリシーがある。

 逆に言えば、踏み込むに値する価値を見出せれば、僕はきっと動くはずなのだ。



 夕飯は全員で食卓を囲むのが坂上家のルールだ。

 そのため、門限には厳しい。


 そうは言っても、理由があればいい。

 こういう時に頼りになる、よく回る口がある誠也が並べ立てた理由で、玄関で待っていた母さんは納得したようだ。

 よくよく聞けば、怒っていたわけではないらしい。

 いつも門限までに帰ってくるのに帰ってこない僕たちが、なにか事件に巻き込まれているんじゃないかと、心配で心配で仕方なかったのだ。


 母さんは、昔、悪質なストーカーに粘着されていた。

 もちろん僕たちが家族になる以前の話で、母さんも若かった。

 今よりも力はなく、立ち向かう勇気もなかった。

 その時に受けた体と心の傷はトラウマとなっている。


 だから、僕たちが同じ目に遭っているんじゃないかと考えてしまって、いてもたってもいられなかったようだ。


「大げさだよ。僕たちは男だ、もし襲われたとしても、自分の身くらい自分で守れる」


 訓練を、母さんたちには稽古と言ってある。


 護身術を教わっていると思っているはずだから、

 不審者を撃退するにはうってつけの技術を僕は持っている。


「そうそう、これでやられたらなんのための稽古だって、笑いものだよな?」

「そうだけどぉ……、心配なものは心配でしょおもう」


 安堵から腰を抜かした母さんに手を差し伸べる。

 乗せられた体重を引っ張り、母さんが立ち上がった。


 乱れた栗色の髪を整えて、

「ほら、お腹空いてるでしょ? 食べよっ」

 と僕と誠也の手を引っ張ってリビングへ連れていく。


 今年で三十二歳の母さんの外見はとても若い。

 十歳以上……下に見ても違和感はなさそうだ。


 大学生に混ざっていても多分気づけない。

 ファッションも、しようと思えば露出の多い服も似合うと思う。

 たとえるなら、読者モデルにいそうな雰囲気がある。


 まさか、これで子供が二人いるとは誰も思わないだろう。

 保護者面談の時に、絶対に先生には驚かれていた。


 比べて、父さんは喪服のような全身真っ黒なコーディネートだ。


 母さんとは反対に、無表情と冷たい視線に、

 正面から向き合うには強いメンタルが必要になる。


 さすがに慣れている僕でも、身構える必要があった。


 厳格、というわけではない。

 融通は利く。

 会話も滞ることはない。


 弾まないだけで、親子関係が上手くいっていないわけでもなかった。

 仕事柄(父さんの仕事は知らないけど)ポマードで髪を固めている父さんは、まだシャワーを浴びていないようだ。

 父さんも父さんで、僕たちが遅れているのを心配していたのかもしれない。


「……ただいま」

「ああ、おかえり。食べようか」


 門限を破った理由は聞かれなかった。

 母さんとの会話を聞いていたのだろうか。


 にしても、一言くらいは咎められると思っていたけど、助かったのかな。

 でも、そこはがつんと言うべきなのではないか、とも思う自分がいる。


 僅かな不満が、食卓の空気を濁らせた。


「どうした。食べないのか、辰馬たつま


 いつもは母さんが一方的に話し、僕たちと父さんの間に走っている緊張感が、今日だけは弛緩していた。


「いや、少しぼうっとしてただけ。いただきます」


 ……家族らしさに、期待でもしていたのかね。


 それきり、食事を終えるまで、父さんは言葉を発しなかった。


 母さんの声とそれに応える僕と誠也の声が、食卓の空気に彩りを取り戻させた。


「辰馬、誠也」


 父さんが話しかけてきた。

 すると、母さんが嬉しそうに、自分の話を打ち切る。


「お前たちは、同じ高校へ進学する、でいいんだな?」

「え……、あ、うん。それでいい……というか、それでもう動いてるけど」


 保護者面談も終えて、志望校も決定し、それに向けて勉強している。

 父さんにも、だいぶ前に話したはずだけど……。


「文句があるわけではない。ただ、あれだ。……勉強は順調か?」


 興味があるのか疑わしいと勘繰ってしまうような、色のない声だった。


「問題ねえよ。一回門限に遅れたくらいで考え過ぎなんだよ。

 俺たちの頭なら余裕で受かる学校を選んだんだ、万一にも、落ちることはねえって」


「そうか」


 父さんが食器を持ち、立ち上がる。

 しかし、そこから動く気配なく、立ち止まったままだった。


「父さん?」

「………………頑張れよ」


 言って、シンクに食器を置き、自室へ戻っていった。

 驚きのあまり呆然としてしまい、はっとして隣を見れば、誠也も同じく。


 互いに見合って金魚のように口をぱくぱくさせていると、母さんが両手を叩いた。


「ほらっ、冷めない内に食べちゃって」

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