第44話 世界はひっくり返った②
おはよう、と朝から怠そうになっちゃんが食卓に着く。昨日のことを思い出して顔が赤くなる。あの返事を、どう受け取ったんだろう。
鏡越しになっちゃんのいる方向を意識しながら髪を丹念にとかす。なっちゃんの登場を待っているような、逃げ出したいような複雑な気持ちになる。
わたしの心を乱すその人が鏡越しに現れて、胸が高鳴る。
「おはよう」
「……おはよう」
なっちゃんはまだ寝ぼけ顔だ。歯ブラシにつける歯磨き粉の量が、今日はいつもより多い。本人は気づいてないらしい。
「ごめん、ちょっと寝坊した」
「なっちゃんの電車に間に合えばいいんだよ」
「そっか」
それからは黙って、それぞれの支度を急いだ。
「いってきます」
「尚! わかってるわよね?」
「うん、大丈夫」
気をつけてね、とお母さんの声が響く。
なっちゃんがガレージから自転車を出すのを待ってる。
「······昨日のさぁ、あれだけど」
「うん」
言い淀むなっちゃんが何かを言い出すのを、黙って待つ。心臓が爆発するカウントダウンをしている。待っている間の歩数を数える。
「やっぱり、遠くに行った
「……? なっちゃんを待たないとは言ってないじゃない? その、離れたくないなぁって」
「離れたら心も離れる?」
「離れないって何回言えばいいの」
会話が食い違う。
わたしの伝えたいことと、なっちゃんの伝えたいこととがうまく噛み合ってない。どう言ったら上手く伝わるんだろうともどかしい。
口を閉じると相手も同じで、沈黙ばかりが張り付くようについてくる。
「……勇気を持って言うけど。前に言った『一生をかけて守りたい人』はお前だよ。この間の話、覚えてる? 初めて会った小さかった時に誓って、それからお前はどんどんかわいくなって、ほかの女の子とは全然違って見えて。
兄妹だからなんだって思ってたんだけど、それが義理だってわかったら、その気持ちは別のものなんじゃないかって思うようになって。
気持ち悪かったら避けてくれていいんだ。どうせ俺は春からいなくなるし。重い話してごめん。嫌ならもうしないよ」
「一生をかけて守ってくれるんでしょう? なのに離れちゃうの?
わたしはまだしょうもない子供だから大人の事情はよくわからない。すきな人と離れたくないっていうのは、その人の気持ちを疑う裏切りなのかなぁ?」
カラカラカラ……と自転車の音だけがしばらく聞こえた。
「帰ってくる。雅のところに。お前のいるところに錨はあるから。そこが俺の家だから。その時にお前の気持ちが変わっててもいいよ。兄貴として今まで通り、雅を見守っていくよ」
じゃあ、もう行くよ、となっちゃんは自転車に跨った。
ちょっと待って、話に頭がついていけなくてあわてて整理する。
わたしはブラコンは卒業して、なっちゃんを好きになってもいいってこと?
どこにいるのかわからないほかの男を探す必要はないってこと?
なっちゃんの自転車に急いでしがみついた。
「待って、なっちゃん!」
自転車に跨ったなっちゃんは驚いて振り向いた。
「わたしが昨日『遠くに行けばいいよ』って言ったらどうするつもりだったの?」
「なにも? 今まで通り、離れててもお前の幸せを見守ってたよ」
「じゃあ、『行かないで』って言われてどんな気持ち? 『離れたくない』って言われてどんな気持ち?」
なっちゃんは少し微笑んで、わたしの頭の上をぽんぽんと叩いた。
「そうだな。本当のことを言うとうれしかったかも。勝手かもしれないけど俺たちを縛ってた兄妹っていう心地よい繋がりがするっとほどけて、代わりにふたりの気持ちが自由になった気がした。
もちろん上手くいくとは限らないからこのまま逆に疎遠になるかもしれないとも思った。だけど雅の『特別なひと』でこれからもいられるなら、ワンチャンあるかなって」
いつも見慣れた街並みが、寂れた商店街のシャッターまで全部、突然、目がチカチカするくらい極彩色に彩られていった。
世界の見え方は突然変わって、眼鏡をかけたらこんなふうなのかもしれないって、そう思った。
いまなら、思い切って聞きたいことも聞ける。
「電車で行ける範囲の大学じゃダメなの? 都内までちょっと遠いけど二時間くらいじゃん」
「バカだな。だからこそ迷ったんだよ。俺の志望する学科はほかにも確かにあるんだけど、この先生のところで、この研究がしたいってずっと憧れてたんだ。
でもさ、このまま家に残っていいお兄ちゃんのままでいれば、何事も起こらない。家族からはみ出さないで済むから。城崎家の出来のいい長男のままでいられる」
わたしは少し口を尖らせて、上目遣いに意地悪なことを言った。
「わたしをすきになったら、家族からはみ出さない?」
「はみ出す。すごくはみ出す。だからこの半年の出来事は宝箱にしまっておこうと思ってた。雅が匠と付き合いだした時、正直すごく焦った。だけどそのお陰でいままで以上に気持ちが近づいた気がして、それで十分だったんだよ。――でもお前が全然、おとなしくないし」
「子供だし?」
「なんにも理解してないのに『特別すき』とか言い出すし。挙句、抱きつくし」
なんだかバツが悪かった。
『恋』なんて、そういうひとがひとを想う形を全然わからないまま、なっちゃんにベタベタしたのは確かだった。やっぱりまだわたしは迂闊で無防備だった。
なっちゃんがお兄ちゃんだと思う気持ちが半分あって、甘えたんだ。
いま思うと「うひゃー!」って思うようなことがいっぱいで、上手く顔が見れない。
「とにかくもう行くよ。今日は行かないわけにはいかないしさ。······俺のいない四年間に、きっと俺よりいいやつが見つかるよ、雅には」
右手をあげてわたしの特別な人は緩やかな坂道を下っていった。
そのひとはわたしの家族なんだけど、お兄ちゃんなんだけど、それだけではなかったようだ。
よく知らない『男の人』だったそのひとに、追いつくことができるのか、わからなかった。だってまだわたしは中学生だし、子供だし。
『すき』にも種類があるなんて、知らなかったんだ、この間までは――。
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