第43話  兄でも、妹でもなくても

 みんなの視線がわたしに注がれる。ぐっと両足を踏ん張る。

 こういう時はおへそに力を入れるといいって誰かが言っていた、と妙に冷静になる。


「なっちゃん、雅はここにいるよ? 雅がここにいればなっちゃんもここにいるって約束したじゃない。それは心の中でも一緒だよ。離れても、心はきっと繋がる」


「聞いてたんなら、わかっただろう? 俺はこの家を出ていく勇気もない間抜けだって。

 もしもここを出たら、この家の子としてずっと真っ直ぐに生きていけるか、みんなに捨てられないか自信がないんだよ。だから大学だって遠くに離れちゃったら······雅だってきっと俺のことなんかより」


「違うよ。なっちゃんならなんだっていいんだよ。血なんか問題じゃないんだよ。だって雅の特別な人はいつだってなっちゃんで、なっちゃんしか好きな人はいないっていつも言ってるし……」


 情けないことに涙が溢れて、そんなふうに泣き落としで事を収めようとしているとは思われたくなかった。ただ、思っていることを伝えたかった。


「そんなふうに思っててくれてありがとう。雅が俺を特別だって思ってくれてたから今までここに甘えていられたんだよ。ありがとう」


「……ありがとうとか、そういうの言わないで。さよならするわけじゃないんだから」


 後ろからそっとお母さんが回ってきて、わたしの肩に手を置いた。わたしの出番は終わってしまった。このままではなっちゃんとはさよならだ。さよならなんか、するわけにいかないのに……。


「雅、ありがとう」


 ⚫ ⚫ ⚫


 窓の外には丸い月が出ていた。

 今夜の月は黄色くて、空に飾られた金色の折り紙のようだった。


 わたしはカーテンをそのまま開けておくことにする。窓ガラスを通して透き通った光が窓の形に広がる。


 コツコツと、想定内のノックの音がする。

 わたしが元気のない時に放っておくような人ではない。それは義理だったのかもしれないけれど、それでも幼い時からずっと、なぐさめられてきた。


「起きてるよ」


 ずるずるっと背中がドアを滑る音がする。どん、と床にドアの外の人物は座り込んだ。


「情けないとこ見せてごめん」

「……なっちゃんの悩みをきちんと理解できてなくてごめん。何度も話そうとしてくれてたのに」


 わたしはそっとベッドを出て、なっちゃんがいるドアに歩み寄った。ドアにもたれかかる。扉越しにそのひとの息遣いを感じる。


「情けないとこ見せちゃったな。……もう仲のよすぎる兄妹ごっこもやめないと。女の子の部屋には入らないよ」


「今までお互いの部屋に入ってたのに?」

「だから言ったじゃん。男の部屋で無防備になっちゃいけないって。雅はかわいいんだしさ、襲われちゃうよ。なっちゃんだって本当のお兄ちゃんじゃないって知ってるだろう?」


「……大丈夫だよ。なっちゃん以外は入れないよ。ドアを開けて」


 ドアの向こうで躊躇う人がいる。

 わたしの言葉にはなんの説得力もないのかもしれない。それでも、なっちゃんのもっと近くに行きたかった。


「後悔しない?」

「しないよ。近くに来て」


 一歩下がってドアの開くのを見る。わたしの好きな人はそっと、月に照らされるようにドアから忍んで部屋に入ってきた。丁寧にドアを閉めると、わたしを振り返った。


 その瞳は濡れていた。


「おかえり」

 そっとその背中に腕を回してみる。


 なっちゃんは驚いた顔をしてわたしを見た。わたしは気にしなかった。今までだってそうだったものが、小さなことで変わるとは思えなかった。


「バカ。そういう中途半端なのも含めてこっちは複雑なんだよ。だから学校サボったり本人は真剣にさぁ、やたらに触るなよ」


「わたし、なっちゃんが目の前にいなくても気持ちが変わらない自信ある」


「バカだな。気持ちってなんだよ。お前まだ中学生じゃん。本物の恋だって知らないくせに。そのうち俺じゃない誰かがさ、俺がいてもいなくても。俺なんか練習台に過ぎないよ」


 違う、という意味を込めてしがみつく。

 ほかの人を想う自分なんて想像できない。


 わたしは『なっちゃんから始まり、なっちゃんに終わる』それでいいんだ。恋かどうかなんて関係ない。わたしたちは強く繋がっている。……わたしの勘違いでなければ。


「雅には負ける……」


 なっちゃんが背の低いわたしにもたれかかる。初めてじゃなかったけど、初めてだった。


 兄ではないなっちゃんの腕の中は想像以上に温かくて居心地がよかった。わたしの大好きなお気に入りのクッションを超える……。


 ああ、このひとが家族じゃなくてもいつだって特別だったのに――。


 どれくらい長い間そうしていたのかわからない。月はじっと動かなかった。


「俺のこと、軽蔑しない? まさか同情したりしてる?」

「しない。元々知ってたことだし、それに実の妹じゃないからって気持ちが遠くなるものなの?」


「なるわけないよ。なるならとっくになってる。いつでも雅には甘いだろう?」

「よかった、雅は雅だから区別しないでね。妹でも、そうじゃなくても、······中学生でも雅は雅だから」


「そうだな、確かに。兄でも、妹でも、そうでなくても」


 ぽんぽん、と頭の上でなっちゃんの大きな手のひらが跳ねる。ああそう、これがなっちゃん。わたしのなっちゃんだ。


 少し、安心する。

 わたしたちは今まで通りだ。


「ただいま。受け皿になってくれてありがとう」


 ⚫ ⚫ ⚫


 ポン、というLINEの通知が入る。珍しいことになっちゃんだった。


 そのLINEはとても奇妙で、真夜中に突然、届いた。同じ家にいながら、壁越しにどうしてLINEなんだろうとわたしは訝しんだ。


 そしてそれはわたしを泣かせた。


『勇気を持って家から遠い大学を選ぶよ。調査票に堂々と書く。みんな、そのあと戻ってきても家族として受け入れてくれそうだからさ』


 スマホの画面が揺らいで見える。わたしの一世一代の告白が、こんな結果に繋がるとは思ってもみなかった。まさか、わたしがなっちゃんを遠ざけてしまうなんて。


『嫌だよ』と打つのは容易かった。でもそれではなっちゃんの信用を損なう気がして、指がさまよう。


 壁の向こう側にいるなっちゃんはどんな思いで返事を待ってるんだろう。どんな返事を待っているんだろう。わたしのどんな言葉を期待して?


 でも何度考えても答えは一緒だった。


 なんて言ったってわたしはまだ中学生で、他人を思いやることが完璧にはできない。なっちゃんは、返事を待ちあぐねてもう寝てしまったかもしれない。


『本当のことを一度だけ言うよ。なっちゃんは誰よりも特別なひとだから、誰よりもずっとそばにいてほしいよ』


 わたしの返事になっちゃんは笑うだろうか? わたしより大人だから、小さな冗談だと思うかもしれない。


 でもわたしにはそんな冗談を言う余裕は全然なかったし、もちろん心から思って出たセリフだった。



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