第38話 抱擁

「なっちゃん!」


 階段の下から声をかけた。部屋に入ろうとするなっちゃんを引き止める。


「……雅、今日はおやつなくてごめんな」

「待って。今行くから」


 そう長くはない階段を静かに上がって、ドアノブに手をかけたままのなっちゃんに追いついた。


 わたしははーっとため息をついて、なっちゃんはわたしの頭をいつものようにぽんと叩いた。


「入る?」

「うん」

「雅にはいつも負ける……。ひとのお説教、普通の顔して聞いてるとかさ」


 蛍光灯の青白い光が部屋を照らした。なっちゃんはわたしにかまわず、ぎしっと音をたててベッドに座った。


「幻滅した?」


 小さく首を横に振る。そんなちっちゃなことで、わたしとなっちゃんの歴史は揺るがない。わたしの立ち位置はそうなんだ。


 おいで、と身振りで招かれていつものように隣に座る。


「コーラがないな」

「ほんとだ」


 目と目が合う。なんとなくおかしくて笑ってしまう。なっちゃんもつられて笑う。


「バイトさぁ、減らすかも」

「いいんじゃない? なっちゃん働きすぎだもん。それに夜も家にいてくれたらうれしい」

「そう思う? おやつ、減るぞ」

「それは困るかも」


 なっちゃんはわたしの鼻をつまむふりをした。

 よかった、いつものなっちゃんだ。さっきまでのピリピリした空気はここにはなかった。


 いつかのように、なっちゃんの肩に思い切って頭を乗せた。こういうのは妹特権だ。彼女じゃなくても妹なら何度でも使える。


 だけどなっちゃんはやっぱり少し身を固くした。


「なっちゃん、手相見てあげようか?」

「なんだよ真似して」

「あれからネット見て勉強したの。右手ね」


 大きくて平たい手のひらが、そっと開かれて、わたしに向けられた。なっちゃんの真似をする。


「生命線からだよね? ……うーんと、この網目みたいなのは何?」

「俺に聞いてどうするんだよ」

「いいじゃん、そういう遊びなんだから」


 まったく、と言いながらなっちゃんは自分の左手の人差し指を使って説明を始めた。


「この網目みたいなのは、まぁ、真っ直ぐの反対だよ。雅みたいに真っ直ぐ育ってないってこと」

「わたしを育てたのはなっちゃんなのに?」

「人生っていうのはいろいろあるんだよ」


 それは今みたいなことなんだろうか。秋になってから、なっちゃんはわたしの知らないところで変わってしまった。


「先の方が枝分かれしてるのは?」

「選択肢があるのかもな」

「正解、不正解で太さも変わるってこと?」

「もしかするとそうかも。悩むこともいろいろあるんだよ」


 段々、話がハードな方へ傾いていく。わたしはなっちゃんを困らせたいわけじゃない。つまらない遊びで笑ってほしいだけだった。


「感情線だよ」

「雅、くすぐったいからなぞるなよ」

「だってよく見ないと。あ、すごい、わたしより急カーブだ。沸点高いけど、怒らせたくないなぁ」


「お前、俺を怒らせるようなことした?」

「寝てるフリして無理やり起きてた。いっぱい」

「お菓子目当てだろ?」


 わたしはふふっと笑って、なっちゃんの手の向きを変えた。


 結婚線。小指の下に伸びる線。


「結婚線は――なっちゃんは一本だけで太いんだね。しかも長くて少し上向き。一途なタイプなの?」


「知らねーよ。そんなのこの歳でわかるかよ。……好きな人は確かにずっと好きだけど、恋っていうのは終わりがあるものだから。俺が一途でも、相手が振り向いてくれるとは思わないな」


「なんでよ?」

「なんでもだよ。……妹に自分の恋バナしないだろ、普通」


 まぁ、そうかもしれない。けどわたしと匠のことは詳しく知ってたわけだし、わたしだって少しは聞く権利があると思う。


「ねぇ、その人ってかわいい系? 美人系?」


 顔をのぞき込む。一瞬、目が合って、なっちゃんは目を逸らした。


「言わない。これは例えばの話だし、もうやめよう」

「えー? だって前にも大切な人がいるって言ってたよ」


「お前、変なことばっかよく覚えてるんだな? だからいつまでたっても関数が」

「数学の話、今はしてないよ」


 ごめん、と謝られる。


 膝の上に、なっちゃんの手の重みを感じる。この手のひらになっちゃんのすべてが表されているなら、もっと本格的に手相を学びたくなってくる。なっちゃんのすべてを知りたいと、そう思った。



「好きな人ってどんな人?」

「しつこいな、お前。お前に好きな人ができたら教えてもいいよ」

「じゃあ無理。雅はなっちゃんしか好きじゃないから」


「またそういう。いい加減、俺を卒業しないと。俺が学校を卒業してお前と一緒に通えなくなるまでの間に」

「……できるのかな?」

「できるよ」


 さっとすり抜けるようになっちゃんの右手は本人の元に帰っていった。

 あ、と思った時には遅かった。前みたいに、手を繋ごうと思ったのに。


 やっぱりなっちゃんを助けるのはわたしじゃダメなのかもしれない。


 なっちゃんの好きな人はきっとなっちゃんの心の支えになるんだろう。きっと大人っぽくてキレイな人だ。夏休みのあの人のように。


「なっちゃんの助けになれなくてごめんね」


 バッとなっちゃんは勢いよくわたしの顔を見た。その視線の強さに一瞬、たじろぐ。


「なってるよ、すごく。今だって」

「そうかなぁ。何の役にも立ってないよ」

「立ってるよ。忘れたの? 雅が俺の錨なんだ。ここから俺を遠ざけないでくれる」


 信じられないことが起こった。


 ふわっと、まるでスローモーションのようになっちゃんの腕がわたしをやさしく包んだ。


「雅がいなければ、俺はここにいないから」


 その声が髪を揺らす。くすぐったい。耳元に吐息を感じる。


「どこにも行かないから、もう部屋に戻って寝なよ。眠いんだろう? 体が温かい」


 すぐに体は離れてしまって、幻を見たのかと錯覚する。そうじゃない、なっちゃんの温もりが残っている。さっきまでわたしは確かになっちゃんの腕の中にいた。


「おやすみ。俺は明日もお説教される身だけど笑うなよ」


 頬の熱さを知られないうちに、その部屋を出た。

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