第37話 知らないこと

 深呼吸をする。


 毎日少しずつ、朝の空気が冷たくなっていく。肺いっぱいに冷えた空気が入って、はあっと吐くと真っ白な綿菓子みたいなものができた。


 新しいわたしに、なる。


 なっちゃんはその後もずっとわたしを途中まで送ってくれた。お母さんはそんなわたしたちを冷やかして笑った。「恋人同士じゃあるまいし」。


 そんなんじゃない、恋人じゃない。第一、わたしはまだ『恋』を知らない。


「バイトの帰り、起きてる? 明日、土曜日じゃない?」

「……待っててほしいの?」

「いやー、ほらまた、おやつ買ってきてあげようかと思って、確認」


 深夜のおやつ会は度々行われた。最近では不精者のなっちゃんもバイト帰りに『まだ起きてる? 何か買っていこうか?』とLINEをくれることが多くなった。


 そしてそうなるとわたしはもう寝るわけにはいかなかった。


「じゃあね……」

「考えておいて。バイト前にまた聞くから」


 サァッと躊躇いもなくペダルをこいで走り出す。あ、また後ろの髪が跳ねてる。あそこ、いつも跳ねてる。きっとくせがあるところなんだな、と思いながら見送る。


 学校では刻一刻と近づいてくる受験への用意がどんどん進められて、わたしたちは何枚ものプリントをファイルした。


 底抜けに明るかったまみっちも、いつもナーバスだった桃ちゃんも、みんな同じ方向を向いてフラットな人間になった。気持ちがそう、フラットになった。


 匠とはまた行われた席替えで、教室の端と端になった。わたしたちの間に横たわる空気は重かった。


 お互いに次の席替えまでになんとかしようと思っても、前と同じには決してならなかった。


 ⚫ ⚫ ⚫


「ただいま」


 今日もわたしひとりの家に帰る。

 もう少ししたらなっちゃんが帰ってくる。


 そう言えば今日、買ってきてもらうものを決めてなかった。

 そうだ、今日はこの前、発売になったばかりの季節限定チョコレートを買ってきてもらおうと決める。


 キィッと扉が開いて、なっちゃんがいつも通り帰ってくる。わたしはソファにうつぶせになって、Kindleの無料の本を読んでいた。


「おかえり」

「うん」


 なんだか様子がいつもと違う。いつもならリビングのドアを開けてわたしに顔を見せる。そうして自分の部屋に着替えに行く。


 ……今日は顔も見せなければ返事も素っ気ない。


 しばらくするとなっちゃんは部屋着のよれよれのトレーナーを着て下りてきた。


「雅、なんか飲む?」

「うん。あれ、なっちゃんバイト行かないの? シフト間違えた?」

「コーヒーと紅茶、どっち?」


 なっちゃんが飲む方……と答える。機嫌が悪い? わたしに対して機嫌が悪いことなんてほとんどないのに。


「悪い。バイトは休みになった。また別の日におやつ買ってくるよ」


「おやつなんかいいんだよ。そっか、お休みなんだね。また数学教えてもらおうかな。あのね、今日配られたプリントでわからない問題が」


「コーヒー入ったよ」


 なんだか話は放り投げたまま宙に浮いてしまって、どこに着地したらいいのかわからなくなる。どこにも取っ掛りがない。


 いれたてのスティックコーヒーは熱くて、カップを持ち上げるのも難しかった。なっちゃんはずずっとコーヒーをすすった。


「ただいま。尚、ちゃんといるわね?」


 お母さんが帰ってきて玄関から大きな声でなっちゃんに呼びかけた。表情を変えずに、なっちゃんは「うん」と言った。


 お母さんは洗面所に行って念入りに手を洗うと、リビングにやって来た。

 向かい合わせに座ったわたしたちの合間に入るように、わたしの隣に座った。


 なっちゃんは目を伏せてコーヒーをすすった。これじゃ三者面談だ。


「今日、お父さんにも早く帰ってもらうことにしたから。バイトは休めたの?」

「うん、わかったよ。休めたから大丈夫」


「まったくもう、何を考えてるんだか。尚は何年、反抗期続けるの? わたしも佐々木さんのところみたいに、息子とたまには出かけてみたいわ。一緒に服を選んでくれて、荷物は持ってくれるんだって。あー、隣の芝生は青いのよ」


 ふたりの話がまったく理解できなかった。

 お母さんはわたしに手伝うように言い、なっちゃんはそれでも素知らぬ顔をしてコーヒーを飲んでいた。

 いつもなら、半分は手伝ってくれるのに。


 笑わないなっちゃんはまるで知らない人のようだった。


 ⚫ ⚫ ⚫


 お母さんの言葉通り、夕食の時間に間に合うようにお父さんが帰ってきた。


 お父さんは大知に「少しはサッカー、上手くなったのか?」と冗談を言い、大知は当然のように怒った。

 フライを揚げていたわたしはそれを横目で見ていた。


「尚は?」

「部屋に行っちゃったわよ」

「まぁ、急いでも仕方ない。後でゆっくり話そうよ。時間はあるんだから。食事中は叱らないでくれよ」


 わかったわよ、とお母さんは言った。揚げるとどうしてもくるんとなってしまうエビを、何匹も揚げた。


 食事が終わると大知はそそくさとリビングを出て行った。意外に空気が読める弟だ。ここで何かが起こるのを察して、二階に退散した。自分の部屋でスマホでゆっくり遊ぶのだろう。


 わたしはそのままごろんとソファに転がって、クッションを抱えてさっきの本の続きを読んでいた。


 出て行くように言われるかと内心、びくびくしたけれどわたしの存在など誰も気にしていないようだった。


 部屋の空気が重い。

 わたしを除く三人は食卓で顔を合わせていた。それでも誰も喋らなかった。


「尚」

「はい」


 お父さんが会話の口火を切った。

 でもその後の言葉はすぐには出てこなかった。お父さんはいつも落ち着いたひとだ。


「雅じゃないけど、いきなりまた学校から電話なんて驚くじゃない? お母さん、そのうち倒れるわよ。どうしちゃったの、いきなり。

 先生もほとほと困ってたわよ、まだ二年生だからって進路調査票、いつまでも出してくれないと困るって。約束しても帰っちゃうって本当? 

 それから遅刻が多いってどういうことよ? 雅と一緒に出てて、遅刻するわけないじゃない」


 大体、担任の先生、若すぎるのよとお母さんはブツブツ言った。


 ……?

 話が読めない。


 なっちゃんはわたしを朝、途中まで送ってくれる。少しは話もするし、なっちゃんには困ったことがあるような素振りも見えなかった。

 駅に向かう時も今朝と同じように、何事もなくスムーズに自転車を走らせた。


 何があったんだろう?


「……ごめんなさい。特待なのにこんなんじゃ困るってことはわかる。お父さんとお母さんには悪いことをしてるってことも」

「そういうことを言っているわけじゃなくて」


 ちょっと待ちなさい、と穏やかにお父さんが仲裁に入った。


「ちょっと待ちなさい。何も怒ってるわけじゃなくて、尚に何が起きているのか知りたいんだよ」


「何も。普通に学校に行くのが怠い日があるだけ。それ以上でもそれ以下でもないよ」


「……そうか。そういうことはあるかもしれないな。お父さんにだってそういう日はあるよ」


 ――わたしの知らないなっちゃんは少し怖かった。

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