第35話 雨傘

 あーあ、という気持ちで目が覚める。


 昨日の夜食べたプリンは消化不良だった。なっちゃんみたいな人のことを考えながら食べたプリンは、なっちゃんには悪いけど味がしなかった。


「美味しい?」と聞かれたので「うん、美味しいね」と答えたらなっちゃんはスプーンでプリンをすくいながら、良かった、と言った。


 おまけに、ひとさじ大盛りのプリンがそのまま口の中にやってきた。瞳がやさしい。


「おはよう」


 下におりると、なっちゃんはもう食卓についていて食パンを齧っていた。いつも家を出るのがゆっくりな、なっちゃんには珍しい事だ。


「おはよう。支度終わったら声かけて」

「?」


 もう骨折は治ってしまったし、どうしたんだろうと訝しんでいるとお母さんが「匠くん、来なくなっちゃったでしょう? ひとりは危ないからあんたのこと送るんだって言ってたわよ。相変わらず気持ち悪いほど仲がいいわね」


 冷やかされて、何も答えられなくなる。待たれていると思うと気持ちが焦ってしまってバターが上手く塗れない。朝寝坊が大好きななっちゃんはどこに消えてしまったんだろう?


「この間みたいに、ちょっと上目に髪、結ばないの?」


 口に歯ブラシを咥えたまま、鏡越しに話しかけられる。それはきっと匠に別れ話をした日に勇気を出して結んでいったポニーテールのことだ。たった一日のことを覚えていたんだ。


「校則違反だもん」

「あの日は怒られたの?」

「あの日は大丈夫だった」

「ふーん。あれ、似合ってたよ」


 髪を結ぶのに手間取っているわたしを置いて、洗面台から去って行った。


 わたし、こんなんでいいのかなぁ? なっちゃんはわたしを相変わらず甘やかしてくれるけれど、そのままそれを受け入れていていいのかなぁ? いや、まずいだろう。普通に考えて。兄に送ってもらって学校に行くなんて、小学校低学年までだ。


 わたしたちだって今までは普通の範疇を出ることなく、別々に学校に通っていた。一年間かぶった中学生の時も。


 それがどうして、こんなことになったんだろう? なっちゃんの気まぐれ? 気まぐれにしたって、来年は一緒に通う約束だからそれでいいんじゃないかと思う。それだってかなり特別な事だ。


「荷物、カゴに入れていいよ」

「もう持てるから大丈夫だよ。なっちゃん、どうしたの? 骨折するまで送ってくれたこと、なかったじゃない」


「……気にするなよ。今日からは駅までの分かれ道までしか送らないしさ。あ、嫌なら遠慮しないで言えよ? 見られたら困る男がいるとかさ」


「いないです。大体、わたしはまだ中学生だし、恋だのなんだのは早いの!」

「なるほど」


 全然そうは思っていない顔をしてしたり顔でうなずいた。こちらは納得がいかなかった。


「なっちゃんこそさぁ」

「待って。俺たち毎日のように同じ話ばっかしてる。生産性がないよ」

「……そうかも」


 でもさぁ、知りたいんだもん。なっちゃんの好きになる人。

 わたしの好きになる人はきっともっと遅く来るから。


 わたしより先にやって来るはずの、なっちゃんが好きになる人を知りたい。そんなことに何の意味もないとわかっていても。


「じゃあ学校、気をつけて行ってこいよ。今日も早めに帰れると思うから」

「なっちゃん、今日はバイト?」

「バイト。でも少しは時間あるし、勉強なら見てやるよ。宿題、多いんじゃないの?」


 いつも通り、頭をぽんと叩いて自転車の背中が遠ざかる。なっちゃんの心も遠ざかる。


 ⚫ ⚫ ⚫


「この前、偶然見かけたんだけど、雅さ、送ってもらってるじゃん? あの人、新しい彼氏だったり?」


「違うよ、全然違う。あれが例のうちのお兄ちゃんだよ」

「えー? カッコいいじゃん、ヤバい。マジで紹介してほしいかも」


「してもいいけど、今は忙しいから彼女はいらないんだってさ」

「何それ、カッコいい。モテる人しか言えないセリフだよねぇ」


 そうだよねぇ、モテる人しか言わないと思う。

 何人かの女の子をフッたのかな? そんなふうには見えない。


 わたしの前では少なくとも柔和ななっちゃんが「悪いんだけどそんな暇ないんだ」みたいなことを言うのは想像できない。


 まみっちが桃ちゃんに「写真見せてもらうといいよ」って言ったけど、よくよく考えたらなっちゃんと写メ撮った覚えがない。もちろんなっちゃん単体を撮ったりもしていない。


「ごめん、入ってないの」と言ったひとことはなぜか言い訳じみて聞こえた。情けなかった。


 ⚫ ⚫ ⚫


 朝は降っていなかったのに、帰りはけっこう降られた。折りたたみ傘を持っていたから良かったようなものの、制服がぐっしょりになるところだった。濡れた制服の、独特の匂いが嫌いだ。


 あ、と思って傘の雨粒を飛ばすのもそこそこに家に入って着替える。服を探すのももどかしいので、長袖のTシャツにパーカー、デニムというまるでなっちゃんみたいな姿で家を飛び出す。


 間に合うかな……。

 急がないといけない。


 ……駅への曲がり角で、探していたひとを見つける。


「自転車は駅に置いてきたんだよ」


 徒歩のなっちゃんはそう言った。黒地に白いドットの入った、明らかに女物の傘をさしていた。


「折りたたみも持ってるって子がいて、昇降口で雨やむかなと思って待ってたら貸してくれて」

「……濡れなくてよかったね」


 隠しようもないなっちゃんの大きな傘を背中側に回した。バカだなぁ、と思う。ほらね、こういうこと。


 なっちゃんを思ってるのはわたしだけではないんだ。その人は少なくとも今日の雨からなっちゃんを守った。

 傘の表面に、雨粒が音をたてて当たる。


「ありがとう、傘、持ってきてくれたんだ?」

「朝、持ってなかったから」

「貸して?」

「いいよ」

「いいから」


 規則正しく並んだ白い水玉は閉じられて、なっちゃんの本来の紺色の傘がゆっくり開く。それを傘の向こう側にゆっくり見ている。


「帰ろう?」


 差し出された手は雨の中を歩いてきたのでひんやり冷えていた。なぜだか泣きたい気持ちが込み上げてきて、必死に傘を持ってきた自分に、泣く必要は無いんじゃないかと自問自答する。


「なんで泣いてるの?」


 見られたくなかった横顔を見せてしまって、驚いて真正面からなっちゃんの顔を見てしまう。


「泣くなよ。誰だ、雅を泣かせたのは? ……ここには俺しかいないじゃん」


 ぐいっと頭を引き寄せられる。なっちゃんの肩が濡れてしまう。傘と傘の間から、滴がぽたりと落ちる。わたしの涙もなっちゃんの肩を濡らしてしまった。

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