第32話 離れるための一年

 土曜日、朝からなにやらくどくどとなっちゃんがお母さんに怒られている。


 昨日、遅くまで勉強していたわたしは起きてくるのが遅くなってしまった。お父さんはもうしっかりソファに座り込んで、新聞に目を通していた。


「大体ね、無責任なこと言って本当にしてあげられるの?」

「もちろんだよ」

「あんたに彼女ができないとも限らないじゃない」

「作らないからその心配はないよ」

「じゃあまた不登校になったら?」


 あー、となっちゃんは困った顔をした。お母さんもずいぶん意地悪だ。


 入りにくくてリビングの扉からそっと様子をうかがっているとお父さんが「雅、おはよう。みんな朝食済んじゃったよ。受験勉強もいいけどほどほどが一番だよ」と大きな声で言われてその場のみんなの視線がわたしに集まる。

とても居心地が悪い。


「寝坊してごめんなさい……」


 すごすごと食卓に向かう。スクランブルエッグとサラダが用意されていた。大好きなミニトマトがふたつ入っている。


「早く食べなさい。そのミニトマトはここのやさしいお兄ちゃんからのプレゼントだって」

「お母さん、内緒にしてくれたって」

「尚はトマトは好きなのにミニトマトは苦手なのよね。雅はどっちもよく食べるのに」


 ひどいなぁ、となっちゃんが呟いて、わたしはいただきますをする。そっか、なっちゃんのミニトマトなのかと納得する。

 なっちゃんがお母さんのところから歩いてきてわたしの対面に座る。不思議に思う。


「ひとりで食べてもおいしくないでしょう」


 そういうことをすらっと言われちゃうとまいってしまう。この兄を超える人がいるか、やっぱりあやふやになる。


 お母さんはみんなに聞こえるような大袈裟にため息をついた。


「やっぱり尚が妹離れできないんじゃないの?」


 そう言って嫌な顔を作って見せて、ふふっと笑った。微笑ましいと感じられてると思うと、赤くなった顔が上げられなくなった。


 なっちゃんはそれには答えずに頬杖をついてわたしの顔を見ていた。わたしだけが兄離れできないわけじゃないと知って、ほっとする。


 わたしが思っているのと同じように、なっちゃんもわたしを思ってくれている。その考えはわたしの心を落ち着かせた。


 ⚫ ⚫ ⚫


「言ったんだ、志望校のこと」


 何となく、気まずい。それは不純な動機のせいでもあるかもしれないし、なっちゃんがにやにやしているせいかもしれない。できるだけ平静を装うことにする。


「いつまでも黙ってるわけにはいかないし、言わなきゃ何も変わらないと思ったから」


 わたしのセリフに、なぜかなっちゃんは神妙な顔つきになった。じっとこっちを見てみじろぎひとつしない。何か間違ったことを言ったのかと内心焦る。


「雅は」

「うん」


 大きな声で名前を呼んだかと思うと、なっちゃんは口をつぐんで言葉を選んでいるようだった。まるで間違えて話し始めてしまったかのような、何かの言い訳を考えているようにも見えた。


「勇気あるな」


「そんなことないよ。そりゃ、お母さんに問い詰められたらどうしようかと思ったけど」

「俺にできないことをするりとやってのけるんだから、驚く。俺よりよっぽど度胸があるんだ」


 そんなことないよ、と首を振る。


 ……なっちゃんにできないことを? ああ、志望校のこと。なっちゃんが考えるのは怖いと言ったこと。その話題に触れたのは間違いだったと思ったけれど、もうどうしようもないので流れに任せる。


 お父さんとお母さんは買い物に出かけてしまって留守だった。うちの両親は仲がいい。ちょっとした時間があると、ふたりで出かけてしまう。お父さんの仕事が忙しいからこそ、尚更、時間が惜しいのかもしれない。


「春から同じ高校だなぁ」

「まだ受かってないってば」

「単願推薦だろう? 落ちようがないって」


 想像する。一緒に電車に揺られる。

 たった三駅だけど、なっちゃんはわたしを庇うように前に立ってくれるに違いない。

 心がほわっと暖かくなって、ため息が漏れそうだ。これが、高校に進学することへの期待というやつなのかもしれない。


「でもよかったよ、志望校決まって。どこでもいいから、決まらないことにはな」


「うん、本当は志望校の調査票の提出、遅れちゃったんだ。お母さんに言えなくて。そしたら先生から連絡来ちゃって」


「わかる。何となくだけど、親の期待するものってわかるからね。重荷って言ったらいけないんだろうけど。うちはそういうところ基本的に放任だからね」


「なっちゃんは」


 ん? と首を傾げてわたしを見たその顔に今日は特に憂いはなかった。

 今はその問題からは解放されて、わたしの進路が決まったことを素直に喜んでくれているようだ。


 それなら、その気持ちに水を差すのはやめよう。


 なっちゃんはまだ二年生なんだから、進路は漠然としか決めていないのかもしれないし。それが不安なのかもしれないし。


「一緒に通うって言って後悔してないの?」

「してないよ。一生のうちでたった一年のことだよ。きっと短いくらいだと思うよ。三年になると学年末は登校も少ないしね」


「そうなの?」

「そうだよ。だからさ、今度は骨折したらなっちゃんが荷物を持ってやるから心配するな」


 いつものように、頭の上でなっちゃんの手のひらがぽんぽんと跳ねる。

 学年末は登校日数が少ないと言われて、まだ進学も決まってないのに暗い気持ちになる。


 いつまでなっちゃんの庇護の元にいられるのかはわからない。そして、そんなことを期待しているのではいけないんじゃないかと思う。


 なっちゃんと通う一年間は、なっちゃんと離れていく一年間になるに違いないと、心が痛んだ。

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