第31話 不純な動機

「雅、どういうことなの?」



 やられた。バレてしまった。パートから帰ってきたお母さんは相当怒っていた。かんかんだ。


「ビックリするじゃない、いきなり先生から電話が来たりしたら。まったく尚もあんたも」

「……ごめんなさい」

「何の話かわかるわよね」

「うん」


 バイトに出かけるなっちゃんが横目でわたしたちを見ている。何事が起こったんだろうと思っているんだろうけど、それはなっちゃんにだけは知られたくない。たとえなっちゃんが助け舟を出そうとしてくれているのだとしても、だ。


「いってくるよ」

「あんまり遅くならないようにね」


 顔も見ないでお母さんはなっちゃんに言った。わたしはお母さんの目を見ることができず、もちろんなっちゃんの顔も見ることができなかった。

 キィッと玄関のドアが緩やかに開いて、そして閉じた。


「どうして進路希望調査、お母さんに見せないの? 失くしたの? 出し忘れたの?」


 首を横に振る。そういうことではない。


「一学期末にはきちんと決まっていたのにって、先生も心配してたわよ。何があったの?」


 正直に言うかどうか、迷う。言ったらお母さんは怒るだろうか? 反対するだろうか? お母さんに幻滅されるのが怖い。わたしだって、いい子でありたい。


「じゃあ、どうして?」


 やさしい声の裏側に、イライラした声が混ざる。訳がわからない、そう思っているに違いない。


 ゆっくり顔を上げる。本当のことを言う時は、相手を納得させたければ目を見て話した方がいいって前にお父さんが言っていた。


「お母さん、志望校、変えてもいい?」

「ずっとN高志望だったのに?」

「……気が変わったの。M高はダメ? なっちゃんみたいに特待生にはなれないと思うから、お金かかると思って言えなくて······」


 お母さんは聞こえるか聞こえないかというくらいの小さなため息をついた。


「あのね、お金の問題じゃないの。雅が行きたいなら反対はしないけど、急にどうしたの?」

「進学率とか……」

「あまり変わらない気もするけど。確かに私立の方が何かと手厚く見てくれるわね。尚もお陰様で勉強のことでは手がかからないし」


 それは違う。なっちゃんはすごく勉強をしていることをわたしは知っている。なっちゃんならどこの学校に行っても、きっと成績優秀でいられる。


「M高ね。通うのちょっと大変よ? 駅から遠いし。尚は男の子だからあんまり心配しなかったけど」

「なっちゃんが、一緒に通ってくれるって」


 お母さんの顔色が変わって、言わなければよかったと後悔する。


「尚にはもう話したってわけ?」

「うん……。相談に乗ってもらったんだけど、わたしの成績なら問題ないだろうし、一緒に通ってもいいって。勉強も見てくれるって」


「仲がいいのは悪いことじゃないけど、お互いにいい歳なんだから、もう少しお兄ちゃん離れしないとね。

 さっきも言ったけど、志望校変えるのは反対じゃないのよ。

 いい、尚と通えるのは一年だけで、あとは自分で頑張らなくちゃいけないの。その覚悟があるならそうしなさい。お金の心配なんてしないでよね、わかった?」


 うん、と答えた。じゃあ明日はちゃんと出しなさい、と念を押された。


 なっちゃんといたいから志望校を変えたいなんて、とても言えなかった。そんなことが理由になるとも思わなかったし、正しい事だとは思えなかった。はっきり言って小学生じゃないんだし、ってことは自分でもわかってた。


 心の中で、お母さん、ごめんなさいと言う。


「どうしちゃったの、雅。言わないでおこうかとも思ったけど、匠くんもこのところ迎えに来なくなっちゃったじゃない? 喧嘩したの? 夫婦喧嘩は犬も食わないのよ」

「喧嘩はしてない。でも……上手く言えないんだけど、匠じゃない気がして」


「なるほど。雅としては複雑なわけね。まあ、まだまだお子様だしね」

「ひどいな」


 話しながらお母さんはケトルでお湯を沸かして、緑茶をいれてくれる。その香りに心が緩む。


「匠くんには悪いけど、それは仕方のないことね。雅には雅の好きになれる人がそのうち現れるわよ」

「そういう話はいいよ」

「そうね、まだまだお兄ちゃん子だしね。ま、そのうち嫌でも尚じゃない男の子に目が行くようになるわよ」


 そんな日が来るのか。想像もできない。

 うちのお兄ちゃんは優秀すぎるのかもしれない。だって、なっちゃん以上の人を見たことがないくらいなんだから。


 ⚫ ⚫ ⚫


 さあ、気持ちの方向を転換しなくちゃ。


 志望校を変えるなら、少しは受験生らしく勉強するべきかもしれないと思って机についた。

 足元が冷える季節になって、ブランケットを膝にかける。苦手なのは数学で、いつもなっちゃんに見てもらっている。


 二学期の期末テストまでの評定が肝心だ。大丈夫だとは思うけど、過去問もやっていないから緊張する。志望校を変えたいと言ってしまった手前、余裕を持って合格したいなぁと思う。


「珍しく勉強?」


 イヤホンで音楽を聴いていたので、なっちゃんが帰宅したことに気がつかなかった。突然声をかけられて、ひどく動揺する。


「……びっくりした」

「明かりがついてたからさ、またおやつ目当てで起きてるのかと思った。明日は休みだし」

「なっちゃん、M高の過去問まだ持ってる?」

「持ってるけど二年前のだし、傾向変わったかもよ」

「気休めにやっておこうと思って」


 なっちゃんは自分の部屋に問題集を取りに行くと、わたしの部屋の中まで入ってきた。


 そうしてわたしのノートをのぞいて「わからないところがあったら聞きに来いよ。唸ってるより教えてもらう方がずっと早いから」と言った。


 そうする、とわたしは答えて問題集をめくった。所々になっちゃんの書き込みがあって、みんなの気づかないなっちゃんの努力にわたしは敵わないと思う。


 何しろ受験の動機が不純だ。

 なっちゃんと同じ高校に通いたいだけなんだから。

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