第30話 他の誰かのものになる

 今までとは空気が違う。隣の席なのに、ふたりの間には確かに壁があった。いままでなかったものだ。


 それは透明で誰にも見えなかったけど、手で触れそうなほど固かった。


 カバンはひとりで持って、当たり前のように教室を出た。付き合い始めてからはじめてのことだった。もっとも小指は気をつけてあげればもう痛みはなかったのだけど。


 ポニーテールは先生に怒られなかった。

でももう二度としない。これには意味があったんだから。卒業まであと数ヶ月。校則違反なんて、もうしない。



 うれしいことにまだ雨は降っていなくて、左手にカバンを持って家まで歩く。カバンを下ろしてから左手でドアを開けて、足でそれを押さえるようにしてカバンを家に入れた。一苦労だ。


 ただいま、と言っても大知は部活で、なっちゃんもう少ししないと帰ってこない。


 誰も帰っていない家の中は静けさに満ちていて、変にわたしを安心させる。部屋着にのろのろと着替えてからベッドに横たわる。


 ……この部屋にも勉強って言って何度も来たのにな。

 わたしが決めたことなのに、ものすごく気持ちが不安定になる。だって、好きになれな

かった。特別な好きはたぶん、もっと違うものだ。


 ⚫ ⚫ ⚫


 自転車のスタンドを下ろす音がして、なっちゃんが帰ってきたのがわかる。どんな顔をして会えばいいんだろう、平静を装っていたらバレずに済むかなと思う。


「ただいま、雅、帰ってるんだろう?」

「うん、おかえりなさい」


 ずっと隠れているわけにもいかないので、ベッドから下りて迎えに出た。なっちゃんは小さなコンビニの袋を提げていた。


「プリン。新発売のだよ。大知が帰ってくる前に食べよう」


 とんとんとん、と階段を下りる。まだ顔は上げられない。


「プリン、好きじゃなかったっけ? そろそろアイスじゃ寒い季節だし」

「ありがとう、うれしい」



「こっち向いて」



 下を向いていた顔をほっぺを両手で挟んで上げられて、バッチリ見られてしまう。めそめそしていたこと、なっちゃんにはわかるはずだ。


「……言わないようにしようと思ってたけど、匠からLINE来たよ」

「なんでなっちゃんにLINEなんか」

「雅に、悪いことしちゃったって」

「……」


 頭をぽんと叩くと、早く食べよう、と言って部屋に行ってしまった。


「それで泣いちゃったの?」

「だって。悪い事をしたと思ったから」

「悪くないでしょう、別に。仕方のないことだよ。匠だって覚悟できてたと思うよ」

「そうかなぁ」


「わかるものだろう? 自分たちが上手く行ってるかどうかって」

「そうなのかなぁ? なっちゃんはわかるの?」


 コーラのボトルを直飲みしていたなっちゃんが止まった。ボトルをテーブルに置く。


「あんまり経験ないけど。そうだな、まぁ、上手く行かないなってわかる。俺のせいだけどさ」


 やっぱりモテるんじゃないの、と関係の無いことが頭をよぎる。夏休みの、なっちゃんの隣にいた人を思い出す。


 ああ、嫌だなぁ。思い出す度に気持ちが暗くなるのは嫌だ。そんなことに振り回されたいわけじゃないのに。


「今はフリーだよ、誓って」

「そんなこと聞いてないじゃん」


 なっちゃんの買ってきたプリンは味が濃厚で、もったりとした舌触りだった。一口食べると、その甘さで体がいっぱいになってしまいそうだった。


「そんなに落ち込むなよ。自分を責める必要は無いと思うよ。……まさか朝会った時、今日、こんなことになるとは思わなかったけど」


「わたしだって思わなかった。無限ループみたいにあの道を気まずい思いをしながら手を繋いで歩くのかと」


「雅、手」


 涙を拭っていた手を止めて、なっちゃんの言おうとしていることに思い当たる。ああ、そういうこと。わたしが一番してほしいことをしてくれるって、そう言ってるんだね。


 無言で左手を差し出す。


「こっちで合ってるよね? 骨折してない方」

「うん……」


 何度目かのことなのに、なぜかすごく照れくさい。匠と初めて手を繋いだ時のことを思い出す。悪いけれど、あれはときめきを感じなかったんだなぁということがわかる。


 ……今わかってどうする? 兄に手を握られて。


 なぜだか涙がぽろぽろとめどなく流れ出て、それでどうしようもなくなる。なっちゃんの手が、温かい。


「初めての『失恋』?」

「……『恋』してないってば」

「そっか、じゃあ匠に悪い事をしたなって思ってるの? 気にするなよ」

「違う、なっちゃんの……」


 なっちゃんの手が、やさしくて。なっちゃんの言うところの『失恋』をして、お兄ちゃんに癒されているわたしはバカだなぁ。そう、わたしにはまだ早いんだよ、恋は。


 なっちゃんより好きになれる人がいない。あまりにもおかしな話で誰にも言えないけど、なっちゃん以上の人がまだ見つからない。それはたぶん、わたしが幼いからで、決してお兄ちゃんに恋してるからではない。


 なっちゃんがわたしの途切れた言葉の続きを聞こうと、顔をのぞき込む。


「……なっちゃんの、バカ」

「なんだよそれ、せっかく慰めてあげようっていう、兄貴のやさしさがわからないかなぁ?」

「匠と情報交換なんかしないでよ。わたしのいないところでさぁ」


「匠にだって、思うところがあったんだろう? 『後はよろしく』って頼まれちゃったし」

「何それ?」

「俺たちが仲のいい兄妹だってことは匠にはダダ漏れなんだろう。今さらだよ。第一、言われるまでもないことだよ」


 なっちゃんの繋いだ手の指先が、わたしの結婚線をなぞった気がした。


 わたしがお嫁に行く日が来たら、なっちゃんは泣いてくれるだろうか? わたしが逆の立場だったら、きっと泣く。なっちゃんがいなくなってしまった時のことなんて想像できない。


 でもきっと、わたしもなっちゃんも、他の誰かのものになるのが正しいことなんだ。ちっとも実感できないけれど……。この手を離す時が、いつか来る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る