第29話 校則違反のポニーテール

 日曜日はなっちゃんはバイトで、出かける前に食卓で少し早い食事を取って、みんなの目を盗むことなく「いってきます 」と履き潰したスニーカーを履いて自転車で出かけていった。


 わたしはというと、『特別』という札を外されてしまってつまらなかった。わたしだけが『特別』というポジは気分がよかった。


 わたしはまたただのつまらない妹に成り下がってしまった。

そんなことを拗ねても仕方ないのはわかっていたし、総体的に見たらなっちゃんにとっては今の状態が正しくて、真夜中にわたしと話すだけの毎日は間違っている。だから、拗ねても仕方ない。


 ベッドに入っても眠くなんかならなかった。まだ帰ってこない人のことを思っていたからだ。


 スマホのバックライトが闇を切り裂く。そこには友達からのメッセージがあるわけでもなく、動画配信がされているわけでもなく、ただつまらないTwitterの文字の羅列が並んでいた。


 指を滑らせて時折入る『癒し系』を名乗る動物の動画を拾って見ている。


 ネコや、イヌや、ハムスターやクジラ。どこかの誰かの流すなんでもない動画。でもわたしを笑わせる。小さな段を何度やっても上がることのできない子犬がかわいいけれど少し悲しい。


 ああ、まただ。

 なっちゃんが帰ってきてしまった。

 規則正しい足音が階段を上る。明かりを消して息を詰めて、布団に潜る。


 その足音は持ち主の部屋を通り過ぎてわたしの部屋の前で止まった。


 一瞬の間。なっちゃんが躊躇っているのがわかる。そしてわたしも躊躇っていた。


 控えめなノックが聞こえて、名前を呼ばれる。

「起きてるんだろう? 外から部屋の明かりが見えた」

 バレてしまった。このままシラを切り通そうか迷う。バツが悪い。


「……おやすみ」

 踵を返す気配がして、布団から飛び出す。なっちゃん、と声に出す。


「起きてた。待ってたの。なっちゃんの顔が見たくて」

「明日は月曜日なのに起きられるの?」

「……それは、なっちゃんだって一緒じゃない」

「ただいま」


 わたしの部屋のドアから見えたその顔を見て、張りつめていたものがその言葉で心を溶かす。


「おかえり」


 ⚫ ⚫ ⚫


 翌日はあいにくの曇り空で、ほとんど治っている右手の小指が痛む。天気の悪い日に痛くなるって本当なんだな、と思う。


 昨日も夜遅くまで働いていたなっちゃんは、今までそうだったように当たり前の顔をしてボサっと朝ごはんを食べた。


 そうして洗面台の前にいるわたしと大知を押し退けるように歯を磨いていく。

 前と変わらない、日常。


 でもわたしは違った。

 勇気を持って髪を低めのポニーテールにする。低めといえど校則違反だった。


「お、かわいいじゃん」


 物事を深く考えないなっちゃんがわたしの肩を叩く。いつもは頭をぽんと叩いていくので、気を遣ってくれたのかもしれない。


 匠がいつも通り迎えに来る。もたもたと靴を履く。


「いってくるよ」


 なっちゃんが久しぶりに登校する。わたしの目の中をのぞき込むようにして、顔を見ていく。あわてて玄関を出る。


「いってらっしゃい」

「お前らも遅刻するなよ」


 なっちゃんの方が時間に余裕が無いはずなのに、ゆっくり自転車を加速させて走り出す。見慣れた背中だ。


「久しぶりになっちゃんに会ったな」

「そう? そうかもね」

 なっちゃんの話はあまりしたくなかった。


 ⚫ ⚫ ⚫


 いつもの曲がり角に差し掛かる。骨折をしていない左手に匠の指が触る。


 片手でふたり分の荷物を持つなんて相当、重いだろうに男の子だとそうでもないのかな、と今さらなことを思う。


 ――手を、握られてしまう前にさっと固く握りしめた。


 匠の手が行き場を失って戸惑う。わたしの心も迷う。何も朝からそんなことをしなくたって、と何度も考えた。でも、決めたものは実行しないわけにいかない。


 決意をする。もう、こんなことはやめよう。なっちゃんの言う通り、心の距離が縮まるわけではないのだ。


「あのさ……」

「ごめん」


 ぽかんとした顔をして、匠はわたしの顔を見た。わたしの足は自然に止まっていた。


「わたし、やっぱりダメみたい。まだわたしには早いみたい。一度は努力するって言ったのに、ごめんなさい。そういう意味で『好き』っていうのがわからないの。『恋』がわからないの。匠を嫌いなわけじゃないんだけど」


 一息に言ってしまってから、自分はバカだと思う。情けなくてうつむく。とても前は見ていられない。


「……そういうことはあるかなと思った。今日だとは思わなかったけど。遅刻するから早く行こう」

「だって」


「仕方ないよ、どうせ高校だって分かれるし、雅が俺を好きじゃないのは最初からわかってたし。……好きになってくれないかなって思ったけど、努力が足りなかったっていうのもあるよな。努力だけじゃどうしようもないこともあるんだし。強引だった、ごめん」


 ごめん、とそれしか言えなかった。カバンは自分で持つからと言ったけど、匠はいいよと言って譲らなかった。


 しょぼん、としか言えない。心の中の空気が抜けてしょぼんとしている。これでいいのかどうかはわからなかった。


 もしダメなんだとしたら、誰がそれを教えてくれるんだろう? わたしたちにしかわからない問題なのに。

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