第28話 兄の贔屓目

 帰宅したお父さんはドアをノックして、

「尚、ちょっと」と言った。


 わたしはその時またなっちゃんの部屋でなっちゃんの本を読んでだらだらしていたので、この時が来てしまったことに驚いた。


 なっちゃんは机で勉強をしていたけれど「はい」と確かな声でそう言った。


 行ってくるから、と言ったなっちゃんはわたしの方をやさしく見て、大丈夫だから、と言った。何が大丈夫なのかわからなかったけれど、とりあえずうなずいた。


 なっちゃんの階段を下りる音が遠くなっていく……。すごく不安になってきて、階段の下までそっと、音を立てないようにして下りた。


「……じゃあ、週明けからは学校に行くんだね?」


 お父さんの穏やかな声が重く響く。はい、と確かな返事が聞こえる。


 なっちゃんはお父さんにたてついたりしない。お父さんもなっちゃんに声を荒らげたりしない。

 これが大知だと生意気なことを言い返したりするので、お父さんも本気で怒ることもある。


「それなら何も言うことはないよ。高校は単位制だからね。小中学校とは違って、気が済むまで休めとは言えないんだ。わかるね?」


「……はい。少しひとりになりたかっただけだから」


「それならいいんだけど。雅だってすごく心配してたじゃない? あの子、自分だって怪我してるのにバカみたいに尚の心配ばかりして。わかりやすいのよね」


「雅にも悪いことをしたと思ってる」


 悪いことを……? 別にわたしは少しも迷惑はしていないし、なっちゃんはわたしに悪いことをひとつもしていない。


「じゃあ、ご飯の時には下りていらっしゃい。雅も安心するでしょう」


「うん、そうするよ。変に意固地になってごめん」


「誰もが通る道よ。反抗期のない子の方が危ないっていうからね、気にしないのよ」


 なっちゃんの椅子を引く音が聞こえてビクッとする。さすがにバレたらまずいんじゃないかと思って階段を上ろうとする。


 そこにリビングの扉を開ける音がする。


「お前」

「えーと、あの、トイレ。話してるところ悪いかとは思ったんだけど」


 トイレは二階にもある。何の言い訳にもならない。足の先が嘘をついたせいでもじもじする。


「いいけどさ、二階に行くところ?」

「うん」


 ああもう、ドキドキして心臓が口から飛び出しそうだ。ぴったり後ろからなっちゃんが上がってくる。背中を意識しないわけにはいかない。


 怒ってる? ……怒ってないといいなぁ。でも立ち聞きは決していいことではない。


 ⚫ ⚫ ⚫


 ごく自然なことのようにするりとわたしはなっちゃんの部屋に入れられた。

 ほら入るだろう、と言わんばかりにわたしがすり抜けると間もなくなっちゃんはドアを閉めた。


「……ごめんなさい。怒ってるよね?」

「ああ、トイレ?」

「もう、わかってるくせにひどいよ」


 天使が通りそうな時間、わたしたちは口をきかなかった。お互いに、お互いの考えを口に出さずに共有しているように口を結んでいた。


「学校、行くの?」

「仕方ないよ、いつまでもサボっていられないのはわかってたし。お母さんは熱が引かなかったことにしてくれたみたいだけど、笑っちゃうよな? 小学生じゃあるまいし」


「行ける?」

「行けるよ、そんな心配はしなくていい」


 もやもやした。なっちゃんが学校に行った方がいいのはわかっていた。けど、また遠くに離れてしまうんじゃないかと、少し戸惑う。


「なんでお前が難しい顔になるんだよ。悪かったな、いろいろ心配かけて。もう大丈夫、雅の嫌いなだらしないなっちゃんに戻るから」


「どっちもなっちゃんだし、嫌いじゃないよ。だらしないとか言っても、外に出た時のなっちゃんがカッコいいのは知ってるし……」


 余計なことを言ってしまって頭の中が混乱する。そんなことを言いたかったわけじゃなくて。じゃあどんなことを?


「カッコよくないよ。あの日は雅と出かけるから頑張ったって言っただろう?」


 あの日……。

 なっちゃんと出かけるからってできるだけ大人っぽい服装をしてわたしも頑張った。


 つい先日見た映画を二人で見て、なぜかすごく泣けてしまって、なっちゃんもわたしも困ってしまったあの日。


 あんなことは二度と起こらないのかなぁ?

 わたしはまた、なっちゃんと出かけたい。

 そもそもその考えが間違ってる? なっちゃんを特別枠に入れすぎてる?


 けど。


「あの日、楽しかったな。懲りずにまた一緒に行く? 映画見てマジで泣く女の子、初めてだったよ。あ、でも匠に申し訳立たないか」


「匠のことは関係ないよ。だってさ、別になっちゃんとつき合ってるわけじゃないんだし、浮気のうちにも入らないでしょう? 兄妹なんだから。それにわたし、なっちゃんと出かけてすごく楽しかった」


 っていうか、恥ずかしい事の続出だった。

 バカみたいにつまらないおしゃれをしたことも、泣いちゃったことも、なっちゃんに相応しいと思われたいと思ったこともみんなみんな、恥ずかしかった。


「あの後さ、実はクラスで見てたやつがいてすごいいろいろ聞かれて大変だったんだ。

 あんなにかわいい子とどこで知り合ったんだよーとかさ。うるさいから教えてやらなかった。

 まさかふたつも年下の妹だとは思うまい」


 そう言って楽しそうに笑った。顔がかあっと赤くなる。いや、待て、ちゃんと聞いたでしょう? 『妹 』だから、兄の贔屓目だよ。そう思っても顔が上げられない。


「雅はやっぱり他のやつから見てもかわいいんだよなぁって再確認した」


 やだもう、念を押さなくてもいいのに。


「……? なにか悪いこと言った?」

「別に、そんなことないよ。ちょっと恥ずかしいなぁと思っただけだよ。なっちゃん、妹、褒めすぎ」

「ああ……シスコン、直さないとな」


 しーんと、沈黙が広がる。『シスコン』。その一言に収まってしまった。なっちゃんの残酷な一言に心が抉られる。確かに、そうなんだけど。そしてわたしもそれを直さなくちゃいけないんだけど。


「きっと自然に直るよ」


 取ってつけたようなセリフをぽろっとこぼした。

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