第26話 裏切り

「お前さぁ、俺だからいいようなものだけど無防備。今のお前なら押し倒して何でもできちゃうぞ」


 わたしはそろっと顔を毛布から出した。


「……なっちゃんだし。他の人のベッドなんてそもそも乗らないし。それともなんかするの? しないでしょ?」

「そうかもしれないけどさぁ」


 なっちゃんはわたしの頭を抱いた。吐息が髪にかかる。同じシャンプー、同じ柔軟剤を使ってるはずなのになっちゃんだけの匂いに包まれる。


「お兄ちゃんとしては心配なわけ。言ったら悪いけど、匠は今、そういうことに興味津々だろう? それで、雅は流されやすい。もし雅の部屋のベッドだったら?」


「ない、ない、ないよ。胸もぺたんこだってなっちゃんも知ってるじゃん」

「そういうんじゃないよ。……雅じゃないけど、俺だって雅が特別、かわいいんだから」


 確かに、『特別』という言葉はものすごいパワーワードだった。足の先から頭のてっぺんまで、血液が沸騰しそうになる。


「無防備になるなよ。もっと警戒しろ。男になんか触らせるかってくらいのつもりで……そうじゃない男が出てくるまでは」


 ああ、ダメだ。また同じところをぐるぐる回っている。わたしはなっちゃんのことばかり考えている。ちょっとおかしいかもしれない。でもそれは、今が普通じゃない時だからかもしれないしって、言い訳を一生懸命考える。


「『特別好きだ』なんて言われたら、たまらないだろう?」


 たまらない……。そう、たまらない。なっちゃんに『特別』と言われたらたまらない。


 わかったことがある。

『特別』に、『だから』は必要ないってこと。家族だから、兄だから、友達だから、……恋人だから。


 誰にでも、特別であればそれ以上はない。理由なんていらない。特別なだけだ。その人の席に、他の人は座らせられない。


「……なっちゃんだけだよ、こんなに特別なのは。理由なんてどうでもいい」

「お前も頑固だな。まぁ、そのうちわかるよ。それがどういうことかって。炭酸抜けきる前にコーラ飲んじゃえ」


 何も言わずに立ち上がって、そのままコーラを一気に飲み干した。喉の辺りに刺激を感じる。やっていることが支離滅裂だと思う。


「ともかく、明日が土曜日だからってそろそろ寝なさい」

「わかってるよ。

 ……この間、約束したけど雅は絶対になっちゃんのそばにいるから。なっちゃんの悩みがどんなものかはわからないけど、なっちゃんのとこにいるよ。忘れないで」


 歯磨きしろよ、と声がかかって、後ろを振り向く。目をじっと見てからうなずく。

 わたしは、なっちゃんの味方だ。


 ⚫ ⚫ ⚫


 大知は朝早くから土曜日にも関わらず部活に行ってしまった。男の子というのは忙しない。何が楽しくてそうしているのか、よくわからない。


 お母さんの手伝いをしに下りていくと、もう朝食の準備はできていた。


 お父さんは土曜日はみんなと一緒に朝食をとる。今どき、新聞なんか取っている家は少ないのにご飯どきに新聞を読んで怒られる。


「雅」

 お母さんの声はとても小さかった。

「尚のこと、呼んでこられる?」


 どうかな、と思う。少なくともなっちゃんはわたしを嫌ってはいない。でもそれとこれとは別のように思う。

 とりあえず試してみようと、お母さんにうなずいた。


 トントントンと、今朝は正式なノックをして部屋のドアを開ける。

 なっちゃんはまだ布団の中で寝ぼけていた。昨日もバイトで疲れてるんだろう。


 でも、今日は起こさないわけにはいかない。心の中でごめんね、と思う。


「……なっちゃん」

 うーん、と唸ってなっちゃんはわたしの顔を見た。なっちゃんの目の焦点が合うのを待つ。その間、じっと見つめている。


「雅……」

 なっちゃんの腕が伸びてきて、そっと抱き寄せられる。大丈夫、寝ぼけてるだけ。


「どうしたっけ? 昨日、一緒に寝たんだっけ? ……それってまずくないか?」


 なっちゃんの動きが止まって、それでもまだ腕が解かれることはなかった。


「うわっ! なんでここにいるんだよ? ごめん、寝ぼけてて……別に深い意味はないから」

「ある場合もあるよ?」

「あるかもしれないけど、俺にはない」


 わたしは笑った。慌ててるなっちゃんを見るのは久しぶりな気がした。なんだか気持ちが明るくなる。


「朝ご飯だよ。……せっかく迎えに来たのに、食べないとかないよね?」

「……見逃せよ」

「なっちゃんと一緒に食べたい。まだ右手も不自由だし、手伝ってくれる人がいないと」


「お母さんがいるだろう?」

「あー、今日は和食だったから海苔が食べたいなぁ」


 なっちゃんは黙って考えていた。それはそうだ。自分が守ってきたものを易々と手放さなくちゃいけない。お父さんやお母さんの顔を見ながら食べるご飯の味は……。


 なっちゃんの頑なな横顔を見ていると、自分のしていることがひどい裏切りのように思えた。

 と、同時にわたしが来れば一緒に下りてくれると過信していた自分に落胆した。


「なっちゃん……ごめん。なっちゃんの気持ち、考えなかったよ。なっちゃんはわたしを信用してくれてるのにひどい裏切り行為だよね。ごめんね」


 身を翻して階下へ下りる。二階からはなんの物音も聞こえなかった。そのことは少しだけわたしを悲しくさせた。自分のせいなのに、悲しくなった。

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