第23話 抱きしめたい
朝、目覚めるとなっちゃんの部屋に人のいる気配を感じて今日もほっとする。どこかに消えてしまうんじゃないかという心配はいらない。
左手にはかすかにまだ温もりが残っている気がして、その手を頬に当てる。
でも、やっぱり朝食の時間になっても部屋から下りてはこなくて、今日こそはお母さんもノンストップだった。
「尚っ! いい加減にしなさい! あんたまだ反抗期なの? この歳になっていきなり学校に行きたくないってどういうことよ? 母さん、今日はもうパート休むから、とことん付き合うわよ!」
「お母さん……」
わたしに「放っておきなさい」と言ったお母さんはどこかに消えた。代わりに、なっちゃんを心配して激怒するお母さんが現れた。
「雅は学校に行きなさい! 大知はもう行ったわよ」
「おはようございます」
匠が迎えに来た。怒っていたお母さんは振り返って、匠くん、いつも悪いわね、と笑った。
「……雅さぁ、やっぱり隠してることあるんじゃない?」
「あー」
言わなくちゃいけないだろうか? それともこのままシラを切り通せるだろか? 頭をフル回転させる。
「まあ、ちょっとした家庭内のこと」
「なっちゃん?」
「え?」
「なっちゃん、最近見かけない」
「なっちゃんは、いつも通り、忙しくしてるよ」
言葉をひとつひとつ選んで誤魔化す。言いたくなかった。なっちゃんの弱いところを知ってるのは自分だけにしたかった。
「なっちゃんは……そう、昨日もバイトだったし、今朝はまた寝坊したみたいだけどたまにはするよね」
「忙しそうだからな」
「そうそう、じっとしてられない性分なのかな」
嘘ばっかりだ。
⚫ ⚫ ⚫
昨日の夜のことを思い出す。
なっちゃんはいつでも本当はがんばってる。みんなが思ってるみたいに、何にでも前向きで何でも器用にこなす、そんな人はこの世にはいないんだ。
あんなにスーパーに見えていたなっちゃんが、あんなに脆くなっちゃうなんて……。
手を繋いでいなかったら消えちゃいそうだった。バースデーケーキのろうそうの火のように、ふっと息をふきかけただけで。
「ごめん! 忘れ物した。無い訳にはいかないものなの。カバン自分で持っていくから、ほんと、ごめん! 遅刻になっちゃったら先生に言っておいて」
雅、と呼び止める声がした。久しぶりに走って持つカバンは重くて、いつも持ってくれてた匠に悪いと思う。
でも。それでも、今じゃなくちゃいけないことがある。
左手でスムーズに開かないドアがもどかしい。お母さんはやっぱり仕事に出たようでドアには鍵がかかっていた。必要以上に鍵を開ける音が大きく響く。
もう何でもいい。ドアノブを引いて、足でドアを蹴り飛ばした。
「なっちゃん!」
「お前、学校……」
さすがの音に驚いたであろうなっちゃんが、部屋から顔を出す。わたしはとりあえず息を整えた。
「荷物、持って。これ以上持ってられないよ」
「何したの? 学校、行かないのかよ」
「同じじゃん。なっちゃんが良くて、わたしはダメなの?」
目力で、珍しく勝った。マウントはわたしが取った。
「……こっちに来て」
まるで訳がわからないといった顔をして、なっちゃんはわたしのところまでぺたり、ぺたりと歩いてきて立ち止まった。わたしは腕を上げる。
「よかった。なっちゃんが消えてなくなっちゃうんじゃないかってすごく怖くなっちゃって」
思い切ってなっちゃんの体に腕を巻きつけて抱きしめた。そんなのは兄妹なのにおかしいかもしれない。
でも、今はそんなことを言ってられないし、とにかく捕まえておきたかったから。
「雅……それで学校に行かなかったの?」
「途中までは行ったけど」
男の人に抱きつくなんて、考えてみたら初めてのことでドキドキしていたらなっちゃんがそっとわたしの頭をぽんといつものように叩いた。
そうしてわたしから体を離して、わたしの目の高さまで屈んだ。
「ダメじゃん、悪い兄貴の真似をしたら」
わたしはすぐには何も答えなかった。なっちゃんの目だけを見つめていた。
「俺が家にいるか、見に来ただけ?」
「……うん、たぶん」
「それじゃ学校、行けるだろう? 大丈夫、雅が帰ってくるまで今日もどこにも行かないよ」
「帰ってきたら?」
「今日はバイト入ってるから」
バイト。なっちゃんはまたバイトだ。お父さんやお母さんや大知には会わずに出かけてしまう。そしてまたみんなが寝静まった頃、帰ってくるつもりなんだ。
「バイトは、休まないの?」
「バイトは一日でも休むとみんなが困るからね」
「なっちゃんがいなくなると、わたしは困るよ」
「帰ってくるよ、この前みたいに。またおみやげ、買ってこようか? それとも――」
離れてしまった体に、ぎゅっと頬を押し付ける。何も言わなくても、わたしの不安や、なっちゃんを大切に思っている気持ちが伝わるといいと思う。
こんなこと、兄妹でふつうはしないことくらいわかってるし、今までわたしだってしなかったんだけど。
「雅、気持ちはうれしいんだけど、さ。匠に悪いし。いくらそういう意味じゃないにしたって」
「匠? いっつも匠の話ばかり。なっちゃんは匠に遠慮なんかする必要ないじゃん。妹がお兄さんを頼りに思ったり、心配したりして何がいけないの? そんなん言うなら、わたし、匠とはもう別れる」
「それとこれとは」
「わたしはなっちゃんと匠が崖から落ちそうになってたら、匠には一人でなんとかしてもらって、なっちゃんを助けに行くよ」
「マジで?」
「マジで」
それまで下がっていたなっちゃんの腕が持ち上げられて、わたしをぎゅっとする。あ、安心だと思う。わたしたちの気持ちは今、繋がってる。
抱きしめ合うなんて恥ずかしいこととしか思ったことがなかった。でも違った。ふたりの気持ちが重なって、抱きしめ合うことになるんだ。
「なんだか雅が俺を助けるばっかだなぁ」
「そういうことになるよね」
わたしの頬はなっちゃんに限りなく近くて、それまでは知らなかったなっちゃんの匂いがわたしをふんわり包んだ。
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