第20話 サボタージュ

 夕方になるとなっちゃんは「安静にしてろよ」と言って部屋にこもってしまった。学校をサボったので家族と顔を合わせるのはバツが悪いのかもしれない。


 お母さんが帰っても部屋の扉は閉まったままで、心配したお母さんが控えめにノックをしても扉の向こうの部屋の主は返事をしなかった。


「あの子、雅が持って行ったご飯なら食べるかもしれないと思うんだけど。あんたたち仲良いから。でも今日は片手じゃ危なっかしいわね」

「大丈夫だよ、お母さん。左手で慎重に行くよ」

「本当? できる?」

「できなかったらお母さんを呼ぶよ」


 左手にこぶりのお盆を持って、固定されている右手を添えて、慎重に階段を上った。

 途中、おっとバランスを失いかけたけれど、なんとか目的地にたどり着いた。ここからが、勝負だ。


「なっちゃん、雅だけどご飯持ってきたよ。わたし、ドア開けられない」


 ベッドの軋む音がして、何やらごそごそと聞こえる。


「入っても平気?」

「雅だけ?」

「うん、ひとりだよ」


 そっと開けた部屋に、廊下からの明かりが忍び込んだ。真っ暗な暗闇の中にそっと進む。


「雅ひとりで持ってきたの? 手、大丈夫だった?」

「固定されているからガンッてやらない限り、平気だよ」


 お盆を渡すとなっちゃんはそれを机の上に置いた。


「よく一人で持ってきたよな」

「なっちゃんがきちんと食べないからでしょう?」


 確かにそうだな、と笑った。カーテンの隙間から見える月は全部お見通しだというように煌々と光っていた。


「食べる?」

「食べようかな」


 手をゆっくり離すと、ギギッと音を立ててなっちゃんは机の椅子に座った。デスクライトだけが灯る部屋の中は、ずいぶん無機質に見えた。


 ご飯は鮭の切り身がメインで、中華サラダが副菜だった。


「雅、これ食べたの?」

「食べたよ」

「だって鮭とか、お母さん鬼だなぁ。身、取れなかっただろう?」

「お母さんが取ってくれてご飯にのっけてくれたし、今日はスプーンだったから」

「でも左手だろう?」


 ふふ、とわたしは笑った。心配性のなっちゃんがおかしかったからだ。


 こんなに小さな骨折くらいで大騒ぎしてたら、もしもわたしが手術をすることになったりした時にどうするんだろう? 大騒ぎするんだろうか?


「あーん」


 箸に乗ったご飯が一口分、目の前にやって来る。器用に鮭が乗っている。

 反射的に大きく口を開けた。また餌付けされる。



 ――わたしのことより、自分の心配をしたらいいのに。なっちゃんの方が余程、心配だ。



 わたしの骨折は放っておいても治る程度のものだけど、原因不明のなっちゃんの心の不調を治す方法はわからない。


「美味しい?」

「美味しい。やっぱりスプーンで食べると野蛮な感じがするんだね」

「野蛮か、なるほど」


 なっちゃんは大きな口を開けて、自分も口の中いっぱいにご飯を入れた。しあわせそうに食べている。なのに、しあわせじゃないのかなぁ。


 なっちゃんが食べると、次はわたしにご飯が与えられた。


「本当は美味しく食べられなかったんじゃないの、スプーンじゃ」

「バレたか」


 ベッドに座って食べ終わるのを待つ。お代わりは、と聞いたら、辞退するよとわたしの包帯を指さした。結局、半分はわたしが食べてしまった。


「ああ、食った」

「足りなくない?」

「いや、大丈夫。みんながいない時間にも食べたし」


 そう言うと、わたしの隣に腰を下ろした。何から話したらいいのか、頭の中でゆっくり順番をつけていく。陽気なテレビの音が、階下から流れてくる。


「今日はどうして学校に行かなかったの? 具合が悪かったの? それとも疲れちゃったの?」


 そういう日は誰にでもある。それがなっちゃんにあってもおかしくない。

 なっちゃんはしばらくうつむいていたけれど、さっと顔を上げてわたしの目を真っ直ぐに見つめた。


「·····雅、秘密にできる?」


 ドキドキしながらわたしはうなずいた。


「俺、来年、受験でしょう? そろそろ志望校、絞っていかなくちゃいけなくてさ、進学先、迷ってるんだ」

「なっちゃんなら迷わなくたってどこでも行けるでしょう? 特待生なんてなるのも難しいのに、バイトもしながら成績も落とさないなんて誰にもできないよ」


「違う、成績とか評定とかそういうことじゃなくて……。

 高校受験とは違って大学受験てのはさ、将来の職業に直結してるんだよ。つまり人生に。

 だから無責任に決められない。どうしようかってずっと前倒しで志望校、考えてたはずなのに、その時が来たらそれを素直に選べない。

 調査票が配られた時に思ったんだよ、もうちょっとゆっくり考えさせてくれって。·····今日が提出期限だったんだよ。なんにしたって情けない話だけどさ」


 わたしは今年、高校受験をするけれど、なっちゃんみたいに優秀でもそんなに悩むなんて大学受験はずっと大変なんだなと思う。自分の受験が不安になる。


「誰かに相談したら? ……本当はわたしが相談に乗れればいいんだけど」

「相談かぁ。いろいろ複雑なんだよ。ちょっと簡単には誰かに相談はできないな」


 相談に乗ることもできない自分の小ささにがっかりする。なっちゃんはわたしのバカげた相談でさえ乗ってくれるのに、お返しできないなんて。


 そんなわたしに気がついたのか、頭の上にぽんと大きな手を乗せた。


「そんな顔するなよ。……雅がいてくれると安心する」

「そう? なっちゃんの方がお兄さんなのに?」

「そういうのとは違って。雅が俺の錨だよ」

「錨って船を停めとくやつ?」


『錨』という言葉の示すことはわからなかった。

 食器は夜中になっちゃんが片付けてくれると言った。


 ⚫ ⚫ ⚫


 部屋に戻ると匠から、『ケガ、大丈夫だった? 明日の朝も迎えに行くから』とLINEが来ていた。バタバタしていたのですっかり匠のことを忘れていた。


 心配してくれたのにまったく思い出さなかったなんて悪いことをしたかもと、ベッドの中で反省した。


 ⚫ ⚫ ⚫


 翌朝もなっちゃんは部屋から下りては来なかった。


 さすがのお母さんも二日連続となると自分のパートの時間はおざなりにして、玄関から大きな声を出した。


「尚! 尚? 下りて来なさい。聞こえないの?」


 根気よく繰り返しお母さんは呼んだけどなっちゃんは返事もしなかった。


「お母さん、そろそろ支度しないと」

「……ああ、そうね。遅れちゃう」


 お母さんはドアに置いていた手を離すと、ため息をつきながら階段を下りた。


 お母さんにバレないよう、そーっと部屋のドアをノックすると、気をつけて行ってこいよ、とくぐもった声が聞こえた。


 わたしだって布団の中に潜っていたいときはあるけれど、ずーっと布団にいるのはどんな気持ちなんだろう?


 それとも勤勉ななっちゃんのことだから、誰もいない間も勉強をしていたりするんだろうか? ……そんなわけないか。


 なっちゃんの複雑な気持ちはわたしがちょっと考えたくらいでわかりそうもなかった。


 昨日のように小さなことでも少しずつ話してくれたらいいのにと思いつついつも通り匠と学校へ向かった。


 匠はわたしの右手を見て、痛そうだなぁ、と言った。そして何も言わずにカバンを持ってくれた。


 やさしいなぁと思う。そのやさしさを素直に受け止められないのはなんでなんだろう、わたしがまだ匠より幼いからだろうか。


「もうすぐまた模試あるよなぁ」

「そう? もうちょっと先じゃない?」


 匠はちょっと困った顔をした。


「雅はできるからそう思うんだよ。俺なんか、ちっとも良くならない。……雅はN高だろう?」


 この前のなっちゃんとの会話を思い出す。なっちゃんと同じ高校に一年間だけでも通いたいなんて、バカげていると笑われそうでまだ誰にも言っていない。


「俺はスポーツ推薦でT高に決めた。勉強はできないから」

「すごいじゃない、部活がんばってたからだね。わたしにはスポーツ推薦なんてとても無理」

「俺にはN高が無理」


 何か、言ってあげるべきことがあるんじゃないかなと思う。でも進路のことは個人の特性で決まることで、それをどうこう言ったってどうしようもないんじゃないかと思う。


 繋がれた手から何かが伝わればいいんだけど、わたしたちの間にはまだ回線が通じていないようだった。


 気の利いたことはひとつも言えなくて、いつもと変わらず学校までの道をふたりで歩いた。


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