第19話 顔さえ見られれば

 それは突然のことだった。


 冬服への衣替え目前のある日のことだった。なっちゃんが学校に行く時間になっても部屋から出てこなかった。


 ⚫ ⚫ ⚫


 お母さんがいつもと同じ時間に二階に向かって「ご飯よ!」と呼んだ時、着替えをしていたわたしは急いで階下におりた。


 その時、確かになっちゃんの姿は見えなかったけど、なっちゃんは朝が弱くてこういうことが度々あったので特に気にもとめなかった。


 わたしは自分の支度に一生懸命で、他の人のことなんかかまっている暇がなかったから、なっちゃんがいつまでも下りて来ないことも、お母さんが様子を見に行ったことも知らなかった。


 ただ狭い洗面所で歯磨きをする大知と、髪をブローしたいわたしは場所の取り合いをしていた。


 大知はその日に限って朝練がなくて、生意気にも歯磨きのあと、髪のスタイリングを始めた。


 指先にワックスをつけてなんだかやっている。もちろん校則違反だ。一年のうちからなにをやってるんだか――好きな子でもいるのかな、と思う。


 それに対しなっちゃんなんか、普段、洗面所に来る時にもまだ寝ぼけ顔でナチュラルにわたしたちの真ん中に陣取って歯磨きを惰性でしていく。


 やわらかい髪の毛はいつも同じところが跳ねていたけれど、それほどこだわりがないらしくささっと手入れして学校に行ってしまう。


 わたしは真っ直ぐといえば聞こえのいいなんの特徴もない肩までの髪を、黒いゴムで下の方にひとつに結わえる。校則通り、毎日同じつまらない髪型だ。


 ⚫ ⚫ ⚫


 とにかく毎朝がそんなふうに過ぎていくのに、今日はなっちゃんが洗面台に現れることもなかったし、「いってきます」をする時にもテーブルの上に手のつけられていないご飯と冷めたみそ汁が出しっぱなしになっていた。


 平行に並んだままの箸も、持ち主が現れなくて心なしか居心地が悪そうだった。


 パートに行く準備が忙しかったのかお母さんは、なっちゃんにもあまり構わずにあわてて支度をしていた。


 あとで食べるのかもしれないとわざとそのままにしてあるのかもしれなかった。冷えて固くなったご飯は美味しくないのに。

 

 お母さんはわたしが二階を気にしてるのを見ると「放っておきなさい」と言った。わたしが家を出る時もなっちゃんは何も言わないでただ静かに部屋にこもったままだった。



 なっちゃんの部屋を外から振り返る。

 カーテンが風にやさしくそよいでいる。


 よかった、窓は開いてる。完全な引きこもりじゃない。お母さんが言う通り、放っておけばいつも通り、おかえり、ってやさしく言って二階から下りてくるかもしれない。


 なっちゃんのことはなっちゃんにしかわからない。どちらにしても、わたしはなっちゃんにはなれないし、なるようにしかならない。


 ⚫ ⚫ ⚫


 学校に行ってもそのことばかりに気を取られて悶々とする。授業は頭の中を素通りして去って行った。


 そんなわたしを匠は気にしてくれたけど、わたしは匠に理由を話さなかった。


 なっちゃんは最近、わたしたちより早く自転車で出ていたので、匠はなっちゃんが学校を休んでいることに気がつかなかった。


 それで良かった。それが良かった。なっちゃんのことだけを集中して考えられたから。



「帰り、寄っていい?」と聞かれる。また男同士でゲームする気なんだろうと思って「いいよ」と言う。言ってからハッとする。その頃までになっちゃんはいつも通りになってる?


「ごめん、今日はダメなんだ」

 悪い気もしたけどそう断った。


 ⚫ ⚫ ⚫


 体育の時間、バレーボールの授業でオーバーハンドパスの練習をしていた。頭の上で、手のひらをハの字に広げてやるパスの形だ。


 当たり前のように、頭の中はまだもやもやしていて、考え事ばかりしていた。今、ひとりの家の中でなっちゃんが何をやっているんだろうと気になって仕方がなかった。


 具合が悪くてあの後、病院に行ったかもしれないし。

 それとも遅刻して学校に行ったのか……?



 ふたり組で練習をする。

 ポン、ポンとリズム良くボールを捕える。ボールを……。


 不意にポンッ、ポン、ポン……というように床の上を白いボールは転がっていった。わたしのせいだった。受ける時にまだぼーっとしていたのだ。


「雅ちゃん、大丈夫?」

 ペアを組んでいた桃ちゃんが、わたしのところへ走り寄る。右手の小指に痛みが走る。

「先生、城崎さんが――」


 ボールを持った女の子たちが騒然とする。

「とりあえず、保健室ね」


 ⚫ ⚫ ⚫


 勧められて整形外科に行くと、小指は骨折していた。それは剥離はくり骨折で軽度だと先生は言ったけれど、「受験シーズンじゃなくて良かったね」と笑われた。


 お母さんがパートを抜けてきてくれて、わたしはそのまま下校となった。短い距離だけど、タクシーで帰った。


「じゃあ、お母さん、職場に戻るから。今日は人手が足りなくて休めないの、ごめんね」


 お母さんはそう言ったけれど、手を動かさなければ痛くないし、そもそも固定されているから動かせなかった。


 右手を使おうとして、あわてて左手で鍵を回す。そのままドアを左手で開けた。


「雅!」


 なっちゃんがものすごい勢いで階段を下りてきた。恥ずかしくて右手を後ろに隠す。


「えーと、早退」

「家の前にタクシーが停まったから驚いて、窓から見たんだ。そしたら雅が。どうした? 熱?」

「·····なっちゃん、お腹空かない?」


 え、という顔をなっちゃんはした。話の飛躍に頭がついて行かないようだった。


「わたし、給食、食べ損ねちゃった」


 ああ、と腑に落ちた顔をする。


「ほら、ひとりじゃ用意できなくて」

「何した?」

「バレーの時間にぼーっとしてて、小指折れたの。剥離骨折だって」


 包帯を巻かれた右手を見せる。なっちゃんは砕けた顔で笑った。


「バカだな。もっとひどいケガをしたのかって心配したじゃないか」


 お腹空いた、お腹空いた、とでたらめな歌をうたいながら靴を脱ぐと、なっちゃんが荷物を部屋まで持ってくれて、着替えてるうちにカップラーメンを作ってくれることになった。

 なんでも得意ななっちゃんは、料理はあまり得意ではない。


 学校をサボったなっちゃんは……ヨレヨレのTシャツにスエットパンツで、いつもと何も変わらなかった。髪の跳ねまで一緒だった。


「雅、しょう油とシーフード、どっちがいい?」

「なっちゃんにお任せ」

「じゃあシーフードはお前にやるよ」


 シーフードはなぜかいつもなっちゃん専用で、わたしたちのところにそれが回ってくるのは稀だ。

 ラーメンの前には銀色のフォークが用意されていた。


「左手で食べられる?」

「うーん、たぶんお箸じゃなければ」


 麺はフォークに上手く引っかからなくて一口がほんの少しになってしまう。二口目はフォークに反対に大量の麺が絡んで口に入らない。


「なんだか危なっかしいな。貸してみろよ、今日だけだぞ」


 なっちゃんは器用にスパゲティのように麺を巻くと、ふーふーと冷ましてからわたしにそれを寄越した。


 わたしは大きく口を開けて、パクッと食べた。まるでツバメの雛のようだったけれど、なっちゃんは満足気だった。


「骨折して右手が不自由だからって痩せたらウケるな」

「冗談にならないよ。痩せても一向にかまわないけど」

「バカ言うなよ。まだダイエットするような年頃じゃないだろう」


 学校をサボっても、骨折をしてもわたしたちの関係は何一つ変わらなくて、あんなに心配した自分がアホらしく思えてくる。帰ってきて、なっちゃんの顔さえ見ればそれで安心できたのに。


「えへへ」


 わたしは緩い顔で笑った。なんだよ気持ち悪いなぁ、となっちゃんは言って、またフォークにくるくるっと麺を巻きつけた。


 ブラコンだろうが、そんなことどうでもいい。「なっちゃんがいないと何もできないわたし」は思いの外、心地よかった。

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