第16話 男の部屋に入るのは



 なっちゃんのよく知った手が離れていくのは怖かった。


 でもわたしは匠とつき合う努力をしているわけだし、いつまでも『お兄ちゃん子』でいるわけにもいかない。もやもやは溜まる一方で、とても複雑だった。



 最近のなっちゃんと言えば、朝、学校に行って、夕方帰ってきてからバイトに行くスタイルがメインで、そうじゃない日は帰ってきても部屋にこもることが多くなった。勉強が忙しいのかもしれない。


 ……でもこれはお母さんの話していたことと被るのかも、とわたしは息を潜めてなっちゃんの毎日を見ていた。


 目が合うとふっとやさしく微笑むところは今までと変わらない。


 だけど夏休みを越えると、家族が集まる場、たとえば食卓での会話には加わらなかったし、終始無言で無表情だった。


 まるで気持ちをどこかに置き忘れてきてしまったかのような、そんな顔をしていた。


 ふたりで話す時間もほとんどなくなって、この前までのことが物語の中の出来事のように感じられるほどわたしにとって遠い存在になってしまった。それを何とかしようと、くだらない策を練った。


 なんてことはない。

 なっちゃんが帰ってきた時に目に入るように、ダイニングテーブルの上にラップをかけたおにぎりをふたつ、お皿に乗せて置いておいた。


 それを見て、なっちゃんが実際、どう思うかはわからない。でもこちらから何かを投げかけてみることにした。


 ⚫ ⚫ ⚫


『なっちゃん、お疲れさま。ムラ食いは体に悪いので、たまにはご飯をちゃんと食べてください』


 雅、と名前は書かなくてもわかったかもしれない。でも念のために名前も入れて、おにぎりの隣に付箋を貼っておいた。蛍光色でよく目立つような。


 虫の声しか聞こえない夜の中で、ガタガタと物音がする。

 ああ、なっちゃんの自転車をしまう音。でも体はゆったりとベッドに沈みこんで動かない。



 ……なっちゃん、おにぎり食べてくれたかなぁ? 付箋、目についたかなぁ?

 夢と現実、記憶は途切れ途切れになる。


 ミシッ、ミシッと階段を上る音がして、その足音が急に止まる。



 ……なっちゃん?



 閉じた扉の間からすーっと光がこちら側に伸びて、扉の向こう側の顔は逆光で見えない。でもそのシルエットは確かになっちゃんだった。見間違えるはずがない。


 なっちゃんは不思議なことにそのままわたしのベッドサイドまで歩いてくると、わたしの顔を見下ろす。

 うっすら開いた目が、ぼんやりしたその輪郭を拾い上げる。


 名前を呼ぼうとしても、唇は眠りに支配され上手く動かない。


 なっちゃんはわたしが目を開いたことに気が付かなかったのか、大きく息を吐くと、わたしの額の前髪を大きくかき分けるようにして頭を撫でた。


 そのやさしい手に触れたいと思ったけれどやはり腕も動かない。

 心臓だけが眠気をよそに強く脈を打つ。次に起こることを待っている。


「ごちそうさま」


 十分な時間、わたしの髪に触れてそう言うと、なっちゃんは部屋から静かに出て行った。



 ……何が起こったんだろう?



 いや、何も起こってないとも言える。いつもと同じように頭を触られただけだ。別に嫌だとは思わなかった。


 なっちゃんの言う通り、わたしの半分はなっちゃんが育てたようなものなのであって、あんなふうに頭を撫でられたことは何度もあったんだろう。


 けど、どこか特別だった。


 いつも以上にやさしかったから? それとも夜のせい? 気になり始めると目が冴えてきて、思い切ってベッドを下りた。


 違う、トイレに行くために起きただけ。それ以上でもそれ以下でもない。

 音を立てないように、そっとドアを開ける。


「お、なんだよ、いきなりそんなとこにいると驚くだろう? トイレ?」


 自分だっていきなり人の部屋に入ったくせに、と思う。プライバシーの侵害はお互い様だ。

 なっちゃんはベッドに入ろうと、腰をかけたところのようだった。


「……気が付いた?」

「あ、うん、ごちそうさま」

「それはさっき聞いた……」


 眠い目をこすりながらそう言うと、なっちゃんは真っ直ぐわたしを見た。


「あー、聞いたの? ごめん、年頃の女の子の部屋に入って。もう寝てるかなとも思ったんだけど、お礼だけ言っておこうと思って」

「気にしてないから。食べてくれた?」

「うん。上手くなったよな」


 今度は目を逸らしてそう言った。わたしは何も気にしてないのに、なっちゃんは何を気にしているんだろう。


「座る? それとももう戻って寝る?」


 眠たかった。ずるずると眠りの沼に引きずり込まれそうになっていた。

 でももう少し、ほんの少しやさしさを分けてもらいたかった。間近にある温もりが眠りに一番近い気がした。


 わたしはなっちゃんの隣に腰かけると、なっちゃんの肩に頭を乗せた。


「雅?」

「さっきみたいに撫でて。よく眠れるから」

「……本当に気づいてたんだね」


 とろん、と体はゼリーのようにやわらかくなり、なっちゃんの半身に寄りかかった。

 反対になっちゃんの体はわたしの重みを受け止めるように力が入ったようだ。


 背中から回ってきた手がふわっと髪を撫でる。その指が髪を梳かす。


 わたしの体は次第に重みを増し、わたしを抱きとめるなっちゃんの腕がきつくなる。ふたりの距離は縮まる一方だ。


「子供じゃないんだからこのまま寝る前に部屋に戻れよ。この歳で一緒の部屋に寝てたら、さすがにお母さんに怒られるだろう?」

「うん、そうだね……」


 叱る声も子守唄のように聞こえて、ぬるま湯のような眠気に溺れていく。


「お姫様抱っこは無理だぞ」

「うん……」

「雅、いい加減にしないと」

「うん……」

「……雅、自分の部屋まで歩ける?」


 寄りかかっていた頭をぐいとどけられて、瞬間、目が覚める。は、何をやってるんだ。小さな子供じゃあるまいし。


「なっちゃん、ごめん。寝ぼけてたみたい」

「だいぶな」

「ごめんなさい」


 立ち上がって頭を下げる。「寝ます」と言う。


「雅さ、あー、その、兄だからって男の部屋に入るのはどうかと思うぞ。俺も悪かったけど」

「うん、気をつけるよ」


 その後、どうやって自分の部屋まで戻ったのか記憶にない。でもたぶん、心配性のなっちゃんが送ってくれたんだろう。


 次に目覚めると、きちんと自分のベッドで寝ていた。






 

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