第17話 縮まらなきゃいけないのは

 あの夜のことは夢だったのかと思うほど、なっちゃんは家族と挨拶以外にほとんど口をきかなくなってしまった。これが『年頃』というやつなのか。


 たまりかねたお母さんが、朝、家を出ようとするなっちゃんを捕まえる。


「尚、今日はバイトないんでしょう?」

「うん、真っ直ぐ帰って勉強するから」


 つまり、部屋から出るつもりはないということだ。なっちゃんの受験は来年なのに、もうそんなに備えなくてはならないのかと思うと今年、受験生の自分は焦った。


 そう言えばそろそろ、進路もはっきりさせないといけない。


「今夜は焼肉にするからね」

「わかった」


 夕飯時に逃げ場はないということだ。

 なっちゃんは自転車に跨ると、サーっと走っていってしまった。お母さんもほとほと困ったという顔をしていた。


「男の子の気持ちは難しいわねぇ。家なんて鬱陶しいのかしら? 大知もそのうちああなるのかしらねぇ。そう思うと中学生なんてかわいいもんね」


 おはようございます、とそこに匠が現れてお母さんの表情がころっと変わる。


「あら、匠くん、おはよう。雅が隣で居眠りしないように見張っててね」

「しないよ!」


 お母さんはころころ笑って家に入っていった。


「どうしたの、玄関先で」

「どうもしないよ。なっちゃんを見送っただけ」

「なっちゃんを?」

「そう、たまにはいいでしょう?」


 家の問題は家の問題だ。カレカノは関係ない。なっちゃんのことは言いたくなかった。


「なっちゃん、最近、朝早いよな。前は俺たちが出る前、ギリギリで家を出てたじゃん」

「そうだね、早起きになったんじゃない? それが普通よ、普通」


 そっか、と興味を失ったように匠は言った。


 ⚫ ⚫ ⚫


 家を出て一つ目の角を曲がると、次の角まではほとんど人が通らない。


 このところ毎朝、その短い距離を手を繋いで歩いていた。そろり、と手を繋ぐ。息を大きく静かに吸う。


 匠もわたしも、バカみたいに前だけを真っ直ぐに見据えて歩いていく。これでは手を繋ぐだ。どっちが先に折れるかの勝負だ。


 ⚫ ⚫ ⚫


「でさ、聞かなくてもいいかなぁと思ってたんだけど、匠と付き合ってるって本当?」

「あー……」


 まみっちはズバズバ、わたしの答えにくいことを聞いてきた。


「みんな興味持ってるよ、あんたたちのこと」

「……まみちゃん、やめなよ。雅ちゃん、答えにくそうだよ」


 席替えで隣は匠になった。


 その逆サイドがまみっち、後ろが前と同じく桃ちゃんになった。なんとなく、三年の二学期にもなって卒業も近いのに三人でつるんでいる。


 匠は匠でその時、男友達と楽しそうにふざけていた。


「まぁ、そうかな」

「まぁ、って何よ? もったいつけてないで言っちゃえ!」

「だって……幼なじみ、だからさぁ」


 チャイムの音に救われる。

 だって、付き合うって難しい。夏休みの間になっちゃんと話したいろいろなことが思い出される。



 こうして誰かのことで悩むのは『恋』なんだとなっちゃんは言った。

 でもわたしは匠と朝、手を繋ぎながら登校しても今のところスリルしか味わえずにいる。「誰かに見られたらどうしよう」とか。


 なんていうか、こう、少女マンガにあるような「きゅん」というのがわからない。

 兄妹であるなっちゃんの方が余計……。

 ない、そんなことない。ブラコンは卒業したい。


 なっちゃんの言う通りなら、来年の今頃はわたしに本気の『彼氏』ができて、なっちゃんには本気の『彼女』ができるに違いない。


 大学に行けばきっと、素敵な女性がたくさんいるはずだ。そう、この前のなっちゃんの彼女みたいに。


 それとも実は今も付き合ってるのかも? そうは考えられないだろうか? 彼女との恋に夢中で、家のことなど後回しなんだ。


 なっちゃんにとって、一番は勉強、二番めはバイト、三番はプライベート。


 彼女がいるなら一番は彼女になって、プライベートはランク外に行ってしまう。

 わたしも含めて家族との繋がりなど後回しなんだ。


 そっか、彼女と別れてないのかも……。彼女の話をした時、一言も彼女を嫌いだとは言わなかったもの。それはある。


「雅は毎日素敵なお兄様を見慣れてるからなぁ。匠も敷居が高いんじゃないの」


 ニヤニヤしながらまみっちの出した結論はそれだった。素敵なお兄様、か。そうかも。そうでないかも。


 ⚫ ⚫ ⚫


「……なんだよ」


 お風呂上がりのなっちゃんが麦茶を飲みに来るのを狙って待ち伏せる。部屋にはまだ焼肉の油の匂いが漂っていた。


「なっちゃんさぁ」

「うん」


 案の定、グラスになみなみと注いだ麦茶をごくごくと喉をならして一息に飲んだ。


「この間の彼女さん、まだ付き合ってるんでしょう? なんていうか、ただの女の勘だけど」


 妙な沈黙が訪れる。

 カタン、となっちゃんはグラスを下ろした。


「どうしてそうなったの?」

「どうしてって、だから女の勘」

「あてにならない勘だな」


 つまらない話を聞いたとばかり、なっちゃんはテレビの前に座ってニュース番組を見始めた。

 懲りずにまた近づいてくる台風の話をキャスターは真面目な顔をして話していた。


「……そう? だって最近、あんまり居間にいないっていうかさ、あんまりみんなと話さないし、相変わらずバイトだって忙しいじゃない? お母さんも……」


「忙しいだけだよ、いろいろ。それから雅が気にしてるみたいだからはっきり言うけど、美樹とは別れたから、約束通りに」


 ……美樹。実名。

 そこまで言われると返す言葉が見つからなくて、立ちつくすしかなかった。


 なっちゃんは明らかに機嫌が悪そうに見えた。それはわたしの言ったことの何かがなっちゃんを怒らせてしまったのかもしれない。


「……悪かったよ、大きな声出して。こっちに来る?」


 他に行く場所もないのでなっちゃんの隣に腰を下ろす。顔が見られないので体育座りをして、顔を膝の間に埋める。


 台風の予想進路が迷走している。まさに行くべき道を決められないわたしのようだ。


「ごめんなさい、余計なことを言って」

「気にすんなよ。……お前こそ、匠と上手くやってるの? 最近、悩み相談に来ないけど」

「上手くいってるかはわかんない。でも努力はしてる」

「どんな?」

「……毎日同じところで手を繋ぐ」


 なっちゃんは面食らった顔をした。そしてははっと笑った。ちょっと侮辱された気になる。


「ダメ?」

「ちょっと違うんじゃないの? まぁいいけど、大切なのはそこじゃないよね?」

「そうなの? 距離が近いことに慣れるのが大切なのかと思った」

「いや、違うだろ? 縮まらなくちゃいけないのは心の距離だよ」


 なっちゃんとわたしのように? それは無理だ。わたしたちは同じ屋根の下で育った兄妹だけど、なんと言っても匠は他人に違いないから。

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