第15話 他人の恋路
翌朝のなっちゃんはいつも通りで、怖いところなんてひとつもなくて、欠伸をしながら階段を下りてきた。
「おはよう。雅、起きられたの?」
「なっちゃんじゃないもん」
「なんだよ、それ」
笑いながら食卓に着いた。
昨日の夜が嘘のように、天気もよかった。
⚫ ⚫ ⚫
考えてみると物心ついた時からなっちゃんはやさしくて、わたしはなっちゃんが大好きだった。
どこかに友達と遊びに行く時にも置いていかれたことはないし、置いていかれそうになるとわたしのところへ戻ってきて、一緒に砂場で遊んでくれた。
大知や匠は少し大きくなると男の子チームに入ってしまって、そうなるとなっちゃんは逆にとことん、わたしの相手をしてくれた。
ある日、なっちゃんが一生懸命作ってくれたシロツメクサの首飾りが今も忘れられない。
あの花の匂いまで覚えている。ちょっと青くさい、自然の花の匂い。
そんなふうにずっと一緒にいたなっちゃんが少しずつ離れていくような予感は、もちろんわたしにもあった。
成長すればいつかは離れていく。それは物事の道理だ。
具体的にどんな形かはわからないけど。
⚫ ⚫ ⚫
「おじゃまします」
勝手知ったる匠がわたしの部屋に来る。
模試はもうすぐだ。志望校が固まってきた今さら、模試をしてもあんまり意味なんてないんじゃないの、と思いつつ、仕方がないので問題集を開く。
「雅、ここのところの資料って持ってる?」
「あー、あると思うよ。どのファイルだっけ」
本棚を前にごそごそと探る。去年のプリントなんて持ってるやつが珍しい。それはわたしだ。
「はい」
「真面目なやつは違うな」
「真面目じゃないよ。物持ちがいいだけ」
匠は苦笑した。解けない問題があるようだった。どれ、と顔を近づけて見る。
「グラフの交点ってわかんないよねぇ。先生、新しいプリントくれなかった? あれ、わかりやすかったよ。そうだ、もうすぐなっちゃんが帰ってくるから教えてもらおう」
そうなんだ、わたしもここが苦手で……そもそも二次関数を一刀両断する一次関数が悪い。しかも直線を二本とx軸で囲まれた三角形の……うわー! なっちゃんなら「落ち着いて考えろ」って言うところだ。
テーブルの下でごそっと何かが動く。匠は足が痺れたのかもしれない。そっと、離れる。ところが匠の手が追いかけてきた。
「誰も見てないから、いいよね?」
考える。
間が空いちゃうのってあんまり良くないことだなって思ったけれど、空いたものは仕方ない。
つまり、すぐに、返事をしなかった。なぜならなっちゃんの言葉を思い出していたからだ。待たせるくらいが······。
「ごめん、ちょっと……。勉強中だし」
「そうだよな、確かに。不謹慎だよな。……でも、じゃあどういう時ならいいの?」
ぐっ、と言葉に詰まる。またなっちゃんに頼るというわけにもいかないし、そもそもまだ帰ってこない。大知だって部活だし、家の中でふたりきりだった。逃げ場はない。
ああ、昨日、忠告されたばかりなのに。
「あの。子供の頃、いっぱい手を繋いだじゃない? みんなで走った時とか、自然に。そういうのじゃダメなの? 今みたいな時じゃなくちゃダメなの?」
言っていることはめちゃくちゃだった。
子供の頃は子供の頃の話で、今はカレカノなんだ。訳が違うのは当たり前だった。
だけど物事の流れる速さについていけない。
「これから先、高校が変わっちゃったら雅の周りにはきっと俺よりいい男がいっぱいになる。俺は自信がない。今のうちにどうやってでも繋ぎ留めていたい。『ふたりきり』が大事なんだ」
「……でもまだわたし、恋愛ってわからない。匠についていこうと思ってもまだそういう好きってわからないよ。誰かと手を繋ぎたいって思ったこと……」
違う。ないわけじゃない。でも、それは違う。
だってなっちゃんはお兄ちゃんだし、お兄ちゃんと手を繋ぎたいって、わたしは幼すぎるか、相当のブラコンだ。もちろん、ブラコンなのは確かなんだけど。
だってなっちゃんみたいな男の人に、今まで会ったことがない。
なっちゃんはあらゆる時でも特別だ。……なっちゃん以上に好きになれる人なんて、まだ見つからない。
「ごめん、急がないって約束だよな。本当に俺って学習能力ない。脳筋なんだよ。雅に嫌われたくないんだ、本当だよ。そのためにもっと努力するよ」
「ごめんなさい……」
罪悪感がたっぷりだった。
なのでわたしから手を伸ばして、匠の指をそっと握った。
それが精一杯だった。
スポーツをしていた匠の指はゴツゴツしていて、いつの間にこんなになってしまったのかなと思う。これじゃあ、確かに昔と同じではないだろう。
順調に成長したのは匠だ。
わたしはまだお子様で、なっちゃんの後ろに隠れて守ってもらってばかりで狡い。このままではいけない……。
⚫ ⚫ ⚫
「ただいまぁ」
なっちゃんの声が静寂を破る。あわてて手を離す。ああ、やっちゃったな、と思う。
「匠、来てるの?」
「おじゃましてます」
「なんだよ畏まっちゃって。お前、スマブラじゃ俺の……。悪い、いいとこだった?」
違うの、と言いきれなくて下を向く。今回はわたしから積極的に手を繋いじゃったわけだし、なっちゃんに知られてはならない。
嘘でも否定しなくちゃと思うんだけど、言葉が喉の奥から先に出てこない。
「なっちゃん、数学がね」
「俺には人の恋路を邪魔する趣味はないから。匠、がんばれ。数学なら雅に聞きなよ。バッチリ教えてあるからさ」
「なっちゃん、関数が……」
「もう解けるはずだよ」
わたしの部屋のドアを閉める時、なっちゃんの顔は下を向いていて表情が読めなかった。
わかっているのはなっちゃんは勘違いしてるってこと。
だってそう、わたしは匠を好きになったわけじゃない。まだ好きになってない。
「続き、やろうか?」
真っ赤になった匠はそう言った。
でもたぶん、わたしは真っ青だった。
また変な風に勘違いされたら、わたしとなっちゃんの関係が変わってしまうんじゃないかと怖かった。
⚫ ⚫ ⚫
「匠、帰ったの?」
玄関で匠を見送るとなっちゃんはそう言った。
「関数はできた?」
「……交点は求められた」
「できなかったのは?」
「ふたつの交点とx軸で囲まれた面積」
よし、と言ってなっちゃんはわたしの頭に手を乗せた。バスケットボールを片手で持ってしまうような、大きな手の平だ。
そっと、その指に触れる。
「悪い、髪に触って。ぐちゃぐちゃに……」
「なっちゃんの手が好き」
「……それはそうだ。雅の半分は俺が育てたようなものだし。覚えてるかわからないけど、匠と雅が手を繋いだのなんてほんのちょっとで、雅はいつも俺と一緒だったよ」
「なっちゃんは男の子なのに?」
「そうだよな。雅のことは放っておいて、男と遊べばよかったんだ。だからこんなにやさしいお兄ちゃんはいないって言ってるだろう?」
いつも見慣れているはずのなっちゃんの制服姿が今日は大人っぽく見えた。ああ、わたしもいつかはなっちゃんを卒業する日が来るんだろうか?
来なかったらおかしい。だけどなっちゃんより好きになれる人なんて見つからない。
――それはね、雅。まだ『恋』を知らないからだよ。
心の中になっちゃんの囁きが聞こえたような気がした。だってどうしても『恋』なんてわかんない。
なっちゃんは着替えてくると言って階段の上に消えていった。
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