第8話 大人は『秘密』を作れる(2)

「……彼女、フッちゃうの?」

「ここまで言っちゃったから言うけどさ、最初、つき合えないって言ったんだよ。だって俺は特待生でいるために成績が重要なんだ。その次がバイト。目的があるんだよ。雅じゃないけど、恋愛なんてまだまだ先のことでいいんだ。女に興味が無いってわけじゃないけどさ」

「あるんだ?」

「あるだろ、フツウに」


 なっちゃんも普段、飄々としているようでいろいろ難しいんだな、と思う。


 大体、お金のことを気にしすぎだ。

 お父さんもお母さんも、進学のことでお金の話はしない。そういう時のために、お母さんもパートに出てるんだって言ってた。お小遣いや携帯料金を自分で払えなんて言わない。


「なっちゃん、バイト減らせば?」

「なんで?」

「お小遣いには十分、余るほど働いてるんじゃないの?」


 ……。

 しばらくの間、なっちゃんは黙っていた。なっちゃんの手にあるスーパーカップの中のバニラがどんどん液状化している。こんなに話しちゃって悪いことをしたな、と思う。


「人には――。人にはそれぞれ事情ってものがあって、それは他人にはどうしようもないことなんだよ。俺には俺の事情があるけど、聞いても答えないよ、秘密」

「なんか狡い」

「そうかぁ? こんなに雅をかわいがってるのに。妹にこんなにやさしい兄はなかなかいないと思うぞ。良かったな、雅」

「何か、誤魔化したでしょう?」

「ほら、寝ろよ。もう遅いぞ。明日も匠、来るんじゃないの?」


 わたしは息を飲んだ。

 なっちゃんも言わなければ良かったという顔をした。


 せっかくいい話で終わりそうだったのに、すべてがおじゃんだった。


「お前の自由だけど、別れるつもりなら代わりに言ってやってもいいから。辛くなっても我慢するなよ」


 シンクの脇にすっかり溶けてドロドロになったバニラ味のスーパーカップを置いて、なっちゃんは二階に上がっていった。


 仕方がないのでひとりでしゃがみ込んでアイスを食べた。食べたというより飲むに近かったけれど、その溶けてしまったアイスの温度は、なっちゃんの心の温度に似ている気がした。


 確かにこんなにやさしいお兄さんの話は聞いたことはないよ、と思いながら銀のスプーンを口に運んだ。


 彼女ができても、なっちゃんはなっちゃんだった。心の中で彼女さんに謝りつつ、まだ兄離れしてないんだなぁとため息をついた。

 そっか、わたしはブラコンだったのか……。


 ⚫ ⚫ ⚫


 翌日も何事も無かったかのように朝から匠が現れた。大知は部活でいなかったので、無理に起こされたなっちゃんは匠のリベンジに付き合わされた。


 昨日はあんなにカッコいいことを山程言っていたのに、寝起きのなっちゃんはやっぱりヨレヨレだった。髪はあちこち飛び跳ねているし、寝てた時のままのTシャツは首のところが伸びていた。


 ……ダイニングテーブルの椅子に座りながら、ふたりの姿を眺めている。ふたりはまるで仲のいい兄弟のようだ。わたしなんてまるで最初からここにいないかのように楽しそうだった。


 男の子っていいな、って、どうしようもない考えが浮かぶ。わたしも男の子ならわずらわしいことにならず、あの中に混じって大笑いしながら、今頃、ゲームをしてたに違いない。たまたまわたしだけが女の子でなんだか損をしたような気になる。


 気がつくと指の爪が伸びていた。


 ⚫ ⚫ ⚫


「雅っていつもキレイに爪、切ってるよね。他の女子みたいに伸ばさないの?」

「……伸ばして欲しいの?」

「キレイに切ってある方が雅らしいよ」


 わたしが爪を伸ばさないのは、ピアノを習っていた時の習慣だ。ピアノを弾く時に爪が伸びていると鍵盤に当たってカチカチいう。それが好きじゃなかった。


 両親はたった一人の女の子であるわたしに、女の子らしい習い事をさせたかったらしい。やってみたら楽しかったので、けっこう熱心に練習もした。


 でも、中学に入る前、やめてしまった。


 なっちゃんを見てると中学での勉強はすごく難しくて重要なものに思えたし、ここまで練習してきたんだから、難易度が鬼の曲じゃなければそこそこ弾けるだろうと思った。


 結果、今はピアノには触らない生活だ。


 もしも今、習っていたとしてもピアニストには到底なれなかったし。ああいうのはスタートからして違う。テクニックとオリジナリティのない人は選ばれない。そういう世界だ。


「切りそろえられてる爪の方がキレイだよ」

「そう?」


 何事も無かったかのように、スペルの練習に取りかかる。面倒で結んでなかった髪が前に流れて、耳の脇にかける。


 まったくなんでこんな宿題が出たんだろう? 先生は入試でこんな単語の書き取りが出ると本気で思っているんだろうか? さっきから野菜の種類のスペルばかり書いている。cerelyセロリbroccoliブロッコリーasparagusアスパラガス……。


 脇からゆっくりと手が近づいてきて、何事かと思って顔を上げると、躊躇いがちな指はわたしの頬にそっと触れた。つん、とかじゃなくて間違いなく触れた。


 かぁっと赤くなってしまって、咄嗟のことに上手く対応できない。何か声が出そうになったけど、喉の奥でつかえてしまった。

「髪、結んでくるね」とやっとの思いで立ち上がり、ふらふらと部屋を出た。ヤバい、暑い、暑い、暑い!


 足は勝手にスタスタと進んで、隣のなっちゃんの部屋の前で止まった。自分でも何をしているのかわからない。


「なっちゃん……」


 小さく声をかけると、スマホを布団に投げる音がして、なっちゃんが顔を出した。


「何、お前、顔真っ赤じゃん。熱出た?」


 なっちゃんの胸にしがみついた。妹だからといってしていいこととは思わなかったけど、理性は蒸発だ。やりすぎだろうと冷静な自分は呟いたけど、もう一人の自分はキャパオーバーでまいっていた。


「どうした?」


 そっと部屋にしまってくれて、ベッドに座らされる。思えばこんなふうになっちゃんの部屋に来るのは久しぶりだった。


「顔、触られて……」


 ふぅ、となっちゃんは小さくため息をついた。


「キスしちゃった?」


 首を横に、強く振った。

「じゃあそれくらいなら」

「良くない。なんで触っていいか聞かないの? 手を繋いでいいか聞かないの?」

「聞けばいいんだ?」

「……良くない。良くないよ、触られたりしたくない。少しずつ、少しずつ知ればいいって言ってたのに」

「なるほど」


 途方に暮れた顔をした、なっちゃんの指が視界に入るまで近づいてきた。何が起こるのか、ひっそり見守った。


「こっち?」

「逆。こっち」


 手は入れ替わって、今度は迷いなくわたしの頬にやって来た。

 匠よりずっとしっかりした手がわたしの頬を覆う。この熱はなっちゃんのものだ。冷房で冷えた肌にじんわり馴染んでいく。


「この辺?」

「そんなに広くないけど……」

「浄化完了。じゃあ良しとしよう。よしよし、怖いことは何も起こってないぞ。仕方ないから、匠にはお仕置きしてやろう」


「え、ダメだよ」

「図に乗って、キスされたりしたら困るだろう? こういうのはふたりの速さが合うことが大切だし、雅は流されやすいみたいだから。とろいしね」


 顔、気になるなら洗っておいで、と言われて階段をゆっくり下りる。とん、とん、とん、……と情けない足音に階段が響く。

 なっちゃんは本当にわたしの部屋に入っていった。

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