第4話 手を繋げば繋ぐほどに

 なんの温情もなく次の日は確かにやって来て、匠が「おはようございます!」と妙に威勢のいい挨拶をした時、わたしはまだ歯を磨いていた。


 今朝、目が覚めると匠からLINEが入ってて、約束の時間は学校に行く時とほぼほぼ変わらなかった。


 昨日、プールで死ぬほど泳いだので、本当はそのまま寝ていたかったけどそういう訳にもいくまい。


 自分も早くパートに出かけないといけないはずのお母さんがすっ飛んで出て来て「匠くんじゃないの! 大知は部活に行っちゃったわよ。今日は尚と約束? それとも……」


 わたしはすべてをあきらめて、一声かけて匠を玄関に待たせたまま、のろのろと支度をした。



 デート!

 デートですって! なんだそれは。美味しいのか?



 お母さんも変に溜めるなよ。

 匠は真っ赤になってうつむいている。わたしは洗面所からこっそり顔を出して、その様子を見ていた。


 まだ起きたばかりのなっちゃんがボサボサ頭で目をこすりながら「のぞき見なんて性格悪いぞ。早く支度しろよ」と言って洗面所を横切った。


 言われなくてもやってるよ、と思いながら跳ねがないように、髪を内巻きにブローする。いつも通り、髪を結わえていくべきか迷って、そのまま結わずに行くことにする。



「お待たせ」

「あらあら、そんな年頃なのね」

「お母さん、遅刻するよ」

「やだ、そんな時間?」

 あわてて家の中に引っ込むお母さんを横目に、行こう、と匠を促す。


 お母さんの代わりになっちゃんが「いってらっしゃーい」と寝ぼけ声で見送った。


 なんだか腹が立って仕方がなかった。彼氏ができるというのはこういうことなの? それとも幼なじみが相手だからこうなるの?


 ⚫ ⚫ ⚫


「……機嫌悪い? 寝起き悪い方だっけ?」

「別に悪くないよ。家族総出で、みたいなのがちょっと気に障っただけ」

「お父さんと大知はいなかったじゃないか」

「そういうことじゃなくて! ……なんか、めでたいことみたくされて……」


 匠は今日は手を繋いでこなかった。代わりにわたしのお気に入りのカゴバッグを持とうかと聞いてきた。わたしは首を横に振った。貸しは作りたくない。


「後悔してる? 俺、しつこい?」

「しつこいとかおかしくない? まだ昨日の今日だし。……ごめん。匠のこと、少しずつでもするって約束したのに」


 いいんだよ、と普段の強気な態度とは打って変わったやさしい口調で匠は呟いた。そんな小さな違いに動揺する。


 良くないよ。「努力する」って何よ? もしかするとすっごくわたし、上から目線じゃない? 失礼じゃない? 特にモテるわけでもないのに。


 黙っている時間が増えれば増えるほど、暑さが背中からじりじりとわたしたちを焦がしていく。一歩あるくごとに、一歩分の沈黙が増えていく。焦る。


 一緒にいる時間が増える毎に、気持ちが近づくんじゃないの?


 努力、した方がいいかもしれない、と腹を括る。


「あのー、いつから?」


「え? ああ、雅を好きだと思ったの? そうだなぁ、本当に意識したのは二年の二学期の席替えの時。隣になったじゃん?」

「うん」


「あの時、なんかやけにうれしくてさ。毎朝、学校が楽しみで。雅の隣になってこんなにうれしいってことは、それは雅のことが好きなんじゃないかなって思ったのがきっかけかな?」


「えー? 一年も前じゃん」

「そうだよ、一年も前だよ」


 駅までの道のりをこんなに長く感じた日はない。日差しがどんどん熱くなってきて、歩くのもしんどい。沈黙もしんどい。


 一年間もそんな目で見られてたのかぁ。

 それは驚きに値した。


 ここ一年間の間にどんなことがあったのか、考えてみる。たとえば特に恥ずかしいと思ったのは運動会や水泳の授業で、匠じゃなくてもそんな目で男の子から見られていたのかもしれないと思うと隠れてしまいたくなった。



 あまりにわたしは、わたしたち女子は無防備じゃなかった?



「バッチリ日焼けしちゃったね。赤くなってるところ、痛いんじゃない?」

「一日中泳いでたもん。仕方ないよ。日焼け止めだってあんなに泳いでたら効かなくなるし」


 気のせいでなければ、匠の指先が赤く日焼けしたわたしの手の甲にそっと触れた。わからないくらい、そっと。でも手を握られることはなかった。少し安心する。


 多分、手を繋ぐ度に、わたしたちは周回軌道から外れていく人工衛星のように、幼なじみという安定した軌道から外れていってしまう。

 それは怖いと思ったし、変わらないで済むという選択肢はもうないんだろうな、と匠を少し憎んだ。


 今、わたしは『恋愛』というコースのスタート地点に引っ張ってこられた初心者ビギナーだ。どの走路を走るのか、クラウチングスタートは上手くできるのか、不安でいっぱいだった。


 ⚫ ⚫ ⚫


 駅に着いてどこに行こうかという話になったとき、余程わたしの顔が赤かったようで匠は自販機で冷たいイオン飲料を買ってきた。そして、一口でも飲むように促した。


 別にいいよ、と言ったものの、一口飲んだらそれは甘露のように喉を潤して、気がつけばボトル半分飲んでしまっていた。


「あ、ごめん。こんなに飲んじゃった。匠、これで足りる?」

「え? 俺はもう一本買うからいいよ。それは雅にあげるから」


 ありがとう、と言うと、気にしなくていいから、と匠はまた自販機に走って行った。朝から忙しいヤツだな、とその光景を見ていた。


 結局、相談して、今日はあまりに暑いので冷房の効いたところがいいよねという話になり、映画を見ることになった。


 映画館に入って上映スケジュールを見ながら、ああでもない、こうでもないと話し合って、夏休み前から評判になっていたアニメを見ることになった。


 ――それは、実はなっちゃんと大知と三人で見ようと約束していた映画だったので、いくら流行っているからと言って、今日見るのに相応しいかどうかと考えるとその答えは曖昧だった。


 なっちゃんなら「見てくればよかったのに」と言うだろうし、大知はそもそも姉と行くこと自体が恥ずかしいことだと考えている年齢だった。中一の男の子なんてそんなものだ。


 とにかくわたしと匠はその映画を見たわけだ。


 その映画は青春ものと言えばそうで、恋愛ものと呼ぶにはまだ主人公たちが幼すぎるんじゃないかと思えた。その姿を俯瞰すると、まるで今日のわたしと匠のようだった。


 わたしたちはまだ大人にはなれず、画面の中のふたりの間にも子供同士のおままごとのような、心より言葉の方が先のような『恋愛』が画面いっぱいに映し出されていた。


 ある意味、等身大だった。


「最後、雅、泣いちゃうんじゃないかと思ったよ」

「そうだね、感動した」

 斜めから物語を見ていたわたしは泣いたりしなかった。


 甘い甘いエンディングは、かわいくデコレーションされた生デコのようで、そこで拍手をする気にはなれなかった。


 映画のクレジットが終わるまでは席を立たないという我が家のルールに則って最後まで座っていたけれど、話題の映画もこんなものかと思っていた。

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