6話

分かってはいたことだけど、一睡も出来なかった。


ふらつく足取りで1階に降りること7時半。

トアはすでに起きていて身支度も済ませているようだった。ちょっと早すぎやしないだろうか。

こちらに気づいたトアは、春の果物大集合と書かれた紙パックをテーブルに置いて立ち上がった。

「おはよ、まあ......その様子じゃ寝てないんでしょうけど」

あたしの体調を察し、すれ違いざまに眉を下げる。

冷蔵庫から取り出した紙パックを両手に持ってこちらへ向けた。

「うん......目はつぶってたんだけど」

あたしは牛乳を受け取ってストローを取り外した。

「二三日起きてれば四日目には嫌でも眠れるわよ」

それを世間一般では気絶と呼ぶ。

ソファへと戻り再び春大集合を手にするトアを目で追った。

牛乳に味はしない。冷たい何かが身体を降りていくのだけがわかった。

「イノ、起こしてこようか」

「別にまだいいわよ、ほらこっち座って」

端に移動したトアが自分の左側を叩く。

言われるがまま座ると、かすかにさくらんぼの匂いがした。

「2人とも家どのあたり? 」

スマホを手に取ったトアがきく。

「白鈴の4条通り......イノは____ 」

言おうとしてやめた。こちらを見たトアと目が合う。

「......何? 知らない?」

「トアは知ってるんじゃないの? 」

彼女は表情に出した。1度瞬きすると、背もたれに全体重を預けた。

「知らないわよ、住所知ったって何にもならないでしょ」

「じゃあどこまで知ってるの? 」

あたしは物怖じせず口に出した。

刃物を常備している女の子に対して正しい態度だったかどうかは分からない。

トアは紙パックを両手で掴み、口を開いた。

彩影千愛あやかげちあ、高校二年生。無透維乃むとういのと同じ孤児院を出てて、今は一人暮らし。このくらい、調べたのはゆうくんだけど」

と。なにか引け目を感じるわけでもなくそう言った。

「このくらい......って、なんでそんなこと」

ストローからかすれた音を出したトアは、紙パックを潰しテーブルへ置いた。

「何を考えてるのか知らないけど、昨日言ったでしょ。保護するためにある程度のことは勝手に調べたわよ......もう被害者を出したくないから」

急に牛乳パックの重さが3kgになって落としそうになった。自分のことばかりでトアの気持ちにまで気が回っていなかった。

トアはいつからあの爬虫類に関わっているのだろう。助からなかった人たちも大勢見てきたのかもしれない。

あたしは反省して目を伏せた。

「そ......っか、うん。ありがとう」

萎縮するあたしを見たトアは、ふっと真面目な顔をして徐に身を乗り出すと、急に手を伸ばしてきてあたしの右頬に触れた。あたしは思わず仰け反って牛乳パックを持つ手を高く上げた。

「な、何?」

「うん......最初はイノを引き入れるつもりで準備してたんだけど、周りを探ってたらこんな青が近くにいるんだもの、ゆうくんは何を考えて......」

困惑するあたしを置いてぶつぶつと呟くと、眉をひそめて視線を外す。

トアの心境がわからず、鼻先10cmの距離に息を止めた。硬直し限られた視界を享受する。

トアの伏せた睫毛は長く、ピンク色の瞳は影を落とし沈んでいる。あ......これ、カラコン......?

「俺を雇ったの去年だろ、その時からかよ」

ふいに入り口から聞こえたイノの声に硬直が解け首を動かした。

青いジャージを羽織りこちらを見るイノは、心なしかいつもより髪がへたっている気がする。

「......そーよ、もっと前から動向は見てたけど」

あたしから体を離したトアは立ち上がり紙パックを捨て、ダイニングテーブル側の椅子にかけていた黒いナイロンの上着を手にとった。

「なんか腹立つな......」

一方的に見られていたのが気に食わないのか、イノはリビングの入り口にしゃがみ込むと、膝を抱え腕の上へ顎をのせた。

「イノ、ちゃんと寝た?」

あたしの呼びかけに反応したイノは、目を薄く開いてあくびをした。

「80分くらい」

顔を完全に腕の中へ埋め、ぶんぶんと頭を振った。

世間一般ではそれを仮眠という。

体調底辺のあたしたちを見下ろしたトアは、上着を羽織り黒いポシェットのようなものを腰に巻いた。

「ほら、行くわよ」

一人万全なトアへイノがじとっとした視線を向ける。

「家まで知ってんのかよ......」

「知らないわよ、さっさと連れて行きなさい」

口を半開きにしたイノが助けを求めるかのようにこちらを見た。こんなに調子を乱されている彼を見るのは初めてかもしれない。思わず小さく笑った。

「行こっか」







あんたの家に行くまでチアに荷物持たせ続ける気?というトアの主張により、先にイノの家に向かうことになった。

ちなみに、特にイノが先にあたしの家から行こうと言ったわけでは無い。

あたしが口を挟む余地はもとよりない。

「物言いが気に食わねーんだよな」

「そんなこと言わない」

隣を歩くイノをたしなめながら前を行くトアの揺れる髪を見た。太陽の下で見る灰色のメッシュは若干白っぽく、周りのピンクも反射して思ったより目立たない。染めたと言っていたし、目もやっぱりカラコンをしているのかもしれない。地の色は何色なんだろう。

ふと、胸の奥から嫌なものが込み上げてきた。

ああこれ、また。

罪悪感だ。別に何もしていないのに。


今朝あたしの目を覗き込んだトアは何を考えていただろう。単純にきれいだと思ってくれた?それとも、自分の色が残っていることを羨んだ?あたしを守ってくれるのはどうして?

「チア?」

呼びかけにはっとした。

いつの間にかイノが顔を覗き込み訝しげにしている。

「あ......ついた?考え事してて......」

「いや、もう少しだけど......ほんとに怪我とかしてないのか?」

全然、と胸の前で手を振った。そうだよ、無傷のあたしばっかりこんなんじゃ気を使わせてしまう。あたしからは何も聞かないし余計なこと言わない、それで終わり。いつも通りでいい。

「ちょっと、ここからどっち?」

信号の前で止まったトアが振り返った。言われて周辺に意識を向けると、すぐ隣には時間貸駐車場、囲むように背の低いアパートが乱立している。遠目に見える個人経営の蕎麦屋は開いているのを見たことがない。

イノのアパートは一番奥チャコールブラウンの建物だ。赤い窓枠やベランダを見る度、あたしはチョコレートみたいだなと思う。

「あそこの105......だよね」

不確かな記憶を掘り返してイノを見た。実は来るのは二回目で、前回も部屋の中には入っていない。溜まりに溜まったプリント類を配達させられたのだ。

イノはいらないと言ったけどあたしだっていらない。狭い投函口に封筒ごと入らず、中身を三回に分けて突っ込んだのを覚えている。受け口の無い地面直下型だったらしく、その日の夜バイトあがりで帰宅したイノから抗議のメッセージが飛んでいた。

「そう」

同じことを思い出していたのか、じとっとした目でこちらを見た気がした。あたしは気づかないふりで信号を渡った。

足早に進み一階のチョコレート前で止まる。

「開けられないだろ」と、追いついたイノがオートロックキーに手をかざす。

点滅したキーボードに四回触れた。010と打ち込んだところであたしの誕生日かと思ったけど最後は6だった。イノの誕生日でも無い。全く隠す気なかったな。

トアも見ていたはずだけどイノは特に言及せず室内へ入っていった。扉は開けっぱなし。玄関には今脱いだスニーカーとベルトの多いサンダル。壁は一面チャコールグレーで、幾何学模様の凹凸が彫られている。

すっきりしててかっこいい。


振り返ってトアを伺うと、不思議そうな顔でこちらを見ていた。

「入らないの?」

「えっ、うん......急だし、見られたく無いもの____」

「開けっぱで何してんだよ?」

黒いリュックをお腹の前で抱えたイノが部屋から顔を出した。

「入っていいの?」

「そりゃ......嫌じゃなければ」

こちらも不思議そうな顔をするイノに拍子抜けし、お邪魔しますと足を踏み入れた。

間取りは2Kで、部屋の奥にもう一つ扉がある。

玄関を見てすっきりしていると思ったけど全体を見てわかった。そもそも物が無い。時計は見当たらないしテレビもない。このくらいならわかるけど、棚は背の低いものがひとつ、それもスカスカだ。一番上の段にだけ折り紙や塗り絵が積まれている。孤児院の子たちからもらったものだろう。

捨てていると思っていたわけでは無いけど、ちゃんと保管してたんだ。

昨日会ったばかりだというのにアオイのことが懐かしくなった。孤児院にもしばらくは顔を出せないのだろう。


寝室から小ぶりなボストンバックを下げて出てきたイノがあたしの視線に気づいた。

「......それは置いていくけど」

「うん、あたしもそうする」

日常を持ち込みたく無い気持ちはわかる。それにきっと運びきれない。

「一人暮らしの男の子の家にキャラメライザー?」

キッチンから身を乗り出したトアが手にしているのはバーナーの先に平らな金属板がついた道具。何あれ。

 「俺はお前の愛しの朝霧おにーさんとカフェで働いてるんですけど?あったっていいだろ」

愛しの。イノもさすがに気づいていたらしい。嫌味ったらしくそう言ってトアを睨んだ。

「うるさい。自分の家には普通無いでしょ」

お菓子を作る道具なのだろうか。トアもよく名前を知っていたものだ。

「持っていかないの?」

カバンを肩に掛け直し玄関へ向かうイノを見て言った。

「まあ......さすがに」

トアもキャラメルなんとかを元の場所に戻してこちらにきた。

「別に変な気持ちで漁ったわけじゃないのよ、賞味期限切れるものないかと思って」

「ああ......なかっただろ」

靴を履き終えたイノがサンダルを見つめながら言った。

トアがうなずく。

「というより何もなかったんだけど、料理できるのかできないのかどっちなのよ....」

「毎日買い出し行くタイプなんだよ」

抑揚のない声でそう言い外に出る。

サンダルは留守番させることにしたらしい。

彩度の低い部屋から出ると外の色がいやに眩しく感じられる。

「チアの家までどのくらい?白鈴よね」

トアが後ろ手で扉を閉める。

「うん、電車で20分かな」





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